写真を趣味にする人にとっては写真はアートでありたいと思うものかもしれません。ですが、そもそもの写真本来の目的というのは、忘れてしまいたくない目の前の情景を残しておきたいというものだったと思います。ということは、アートよりも記録、記憶のほうが本来の目的に近いかもしれません。

ただし、なんの意図もなくただただ記録として写真を撮り続けても、実はそんなに面白いものではなく、わりと早い時期に飽きてしまうかもしれません。そこで、写真を撮る瞬間に感じた思いをいかにドラマチックに記録できるか、なんでもないような目の前の景色に注目して、自分の感性に従った切り撮り方をしてみると良いかもしれません。

あなたの感性はあなたが思っている以上に、あなたらしいものなのですから。写真は感性を表現できる楽しいツールだと思うのです。

駅前の思い出

ここは新宿西口の地下通路。ずっと東京に住む私にとって新宿というのはもっとも馴染み深い街の一つといえる。いったいここを何百回通ったことだろう。仕事で、プライベートで。一人で、二人で、大勢で。そのすべてを思いだすことはできないけれど、この場所には何か特別な感情が蓄積されているような気がする。だから、この場所に来るといつもシャッターを押してしまうのだ。

このときは用事があって一人で新宿を歩いているときだった。右手にある広告が入れられた大きなガラスに映るのを見た瞬間にカバンの中からカメラを取りだした。写真を撮るために歩いていたわけではないので、カメラはカバンの中だったからだ。人の動きを見ながら5枚くらい撮って、また何の気なしに歩き出した。だが、考えてみると、過去も含めるとこの通路で撮った写真は相当な枚数がある。

もともと街の写真を撮るのが好き、ということもあるが、新宿はどこか特別な感情が湧いてきてついついカメラを手にしてしまう。特に新宿駅西口は特別な感情があるらしい。その写真の多くは他の人の目に触れることなく、私のハードディスクに蓄積されていく。まさに記憶の保存しておく第二の脳みそであるハードディスクへと。実を言うと私の場合、この場所でいつも写真を撮ってしまうということをたった今認識したのである。

このフォトエッセイを書くために大量の写真が入れられているハードディスクの中をうろうろしていて、「あ~、この場所でいつも写真撮るなあ」と気がついた次第。だから、きっとみなさんも写真を見返してみるとそういう場所が発見できるかもしれない。

私の場合は新宿だが、きっと誰にでもそういう場所ってあるのではという気がする。何十回も何百回も通った場所だけど、そこにくるとついつい写真を撮ってしまう場所が。そしてその場所の写真を見返すと、きっといろいろな記憶が蘇ってくるはずだ。記憶のしおりというからには、本来、1枚の写真で一つの記憶が呼び戻されるはずだが、同じ場所で撮った別の情景も蘇ってくるから不思議だ。

一度しか行ったことのない場所、一度しか見たことのない場所であれば、写真と記憶の関係は一対一なのだろう。だが、何百回も通って、何十回もシャッターを押した場所となると、記憶の糸は非常に複雑なものとなる。もちろん、一番の記憶はこの写真を撮ったときの記憶。でも、そこから次々と記憶が紐解かれ、新宿西口での記憶が洪水のようにあふれ出す。

写真って本当に不思議なものなのである。

雨粒に心惹かれる

よほどのことがない限り、人びとは雨を嫌がるものだ。写真を撮るときだって大抵の場合は雨はあまり有り難がられない。

でも、どういう訳か雨が嬉しくなってずっと撮り続けてしまう瞬間がある。雨上がりの情景ではなく、雨粒をだ。雨上がりの情景というのは葉っぱについた雨粒だったり、雨に濡れた路面に光が差したりして、それはそれでフォトジェニックな被写体なのだが、降っている雨というのはなかなか綺麗に写らずに、結局、諦めてしまうことが多いものだ。

降っているときの雨粒に惹かれるのはだいたい2パターン。窓ガラスなどに当たる雨のしずくか、または池や水たまりなどに落ちて跳ねる雨粒。どちらも霧雨よりは大粒の雨のほうが写真写りは良い。でも、土砂降りすぎるとそれはそれでカメラも濡れちゃうし、撮影意欲が落ちてしまうものだ。被写体が自然相手のため、そんなに都合のよい状況にはならないものだが、たまたまそういう雨に出会うと、思いのほか無心になって撮り続けてしまうものだ。

この写真を撮ったときも、撮影中に急に雨が強く降り出して、仕方なくクルマの中で雨上がりを待っていた。ザーッと音を立てて降っていたので、駐車場のアスファルトはあっという間に水たまりでいっぱいに。ちょっと雨が弱まってきたタイミングで外に出てみると、水たまりに落ちる雨粒が作る水紋が綺麗で魅入られてしまった。

クルマに置いたカメラを取って、傘をさしながら水たまりの前にしゃがみ込む。こういうときに連写を使えばよりドラマチックなカットが撮りやすいのかもしれないけど、私は連写はしない。ファインダーを覗きながら、雨が水たまりに落ちた瞬間を見つけながら丁寧にシャッターを切ったほうがなんとなく自分の気持ちが乗りやすい気がするからだ。いっぱい撮ってあとからパソコンで良いものを選ぶというよりは、その場で気持ちの良い水紋が撮れるまで黙々とシャッターを押す。何枚か何十枚か撮ったらそれでお終い。これで私の記憶には十分に雨粒と水紋がインプットされたはずだ。

水紋なんかを撮って何になるの?と思う人に対する答えなどは持ち合わせてはいない。自分が心地よいと思える被写体を見つけたら、ただそれを自分の記憶の1ページに書き込む作業をするだけのこと。ため息の出るような美しい景色を撮るのも写真。でも、決してため息はでないけど、自分の感性では美しいと感じた瞬間を収めるのもまた写真というものなんだと思う。

大切なことは、日常の中に何かを感じてそれを写真に収めようと思うこと。そのために、カメラを持ち出すこと。人生はそんなに劇的なことばかり起こる毎日ではないのだから、記憶の写真だってすべてが劇的である必要はないと思うんだよね。

それくらいの気持ちの方が写真を長く楽しめるんじゃないかと思う今日この頃です。

 

 

塙 真一さんの『写真は忘れゆく記憶を思い出させてくれる“しおり”』 その他の記事は>>こちら