こんにちは

写真好きであり、カメラも好きな商品企画の大久保です(以下)。
皆さんフイルムカメラは使っていますか?
初めて使われたのはいつでしょうか?
私がフイルムを意識した初めての撮影は開発時代に自分が開発に携わったコンパクトデジタルカメラの実力が知りたくて、会社にあるカメラを鞄に詰めるだけ詰めて、比較実写をした時でした。
コンパクトデジタルカメラが爆発的に売れ始めた頃でまだ20世紀でした。
その時は会社の先輩から借りた中判フィルムカメラが一番きれいでした。なので一番最初に買ったのは中判カメラです。

今回ご紹介する馬込将充さん(以下)ですが、すべての作品をデジタルカメラではなくフイルムカメラで作っておられます。
企業から依頼される写真の仕事もフイルムを使うと聞いてかなり驚きました。
馬込さんは1993年生まれの29歳。初めて作品として写真を撮り始めたのは高校2年生の時で2000年。デジタルがかなり浸透している頃です。
デジタル一眼レフも使われたそうですが、使わなくなってフイルムカメラに戻られたそうです。

:フイルムを使い続けるのは、最初に使ったカメラがフイルムカメラだったからでしょうか?
:そうですね。もちろんそれは大きなきっかけではありますが、デジタルカメラを使ったときに違和感があったためです。
デジタルは撮影後のプロセスが大事なのはわかっています。ただ、フイルムだとあまりいじらない段階で僕が写したかった色味や質感が出ていたので。フイルムの方が僕の中では合理的に見えたのです。
:アナログのフィルムが合理的とは少し不思議な感じがします。なぜでしょうか?
:デジタルはちょっと写りすぎてしまうという感覚が強いのかもしれないですね。
例えば、デジタルでポートレートを撮ると、写真を拡大したらもう毛穴まで見えるじゃないですか。すごいなと思う反面、僕らが普段人と接する時には、毛穴はよほど近づかないと見えないじゃないですか。そこに僕は違和感を覚えるんです。デジタルは忠実に表現はしているけど、逆にリアリティを感じられないのかもしれない。
:最近、若い人がフイルムを使うと聞いているのですが、値上がりがすごいしお金がかかりますよね。
:お金はかかりますよね。
フイルム自体も年々減っているし。正直フイルムをやっていけるのはいつまでだろうという不安は常にあります。
若い人がフィルムを使う理由についてですが、多分、今の若い世代は色々な物やサービスで満たされてはいるけれど、日々に楽しさを感じない人も多いんじゃないかなと思っています。
例えば、今は街の風景もなかなか更新されないじゃないですか。高度経済成長期やバブルの頃を僕は知らないので想像でしかないのですが、どんどん新しいものが建てられて街が変わっていって、国としても社会としても活力があったのではないでしょうか。みんな仕事を頑張るぞと。頑張れば頑張るほど豊かになるんだ、みたいな。
それは結構楽しいと思うんです。もちろん僕が想像し得ない負の面や悲しい出来事も存在していたはずだから、安易な美化はよくないのですが。
今は社会的にも暗いニュースが普通になり、若い人たち、それこそ僕自身も様々な角度から将来が不安だったり。
そういったどうしようもない世界をデジタルで写すと、どうしようもなさが写りすぎてしまう気がするんです。
味気ない世界が味気ないまま写ってしまう。それがフイルムだと、少し優しく嘘をついてくれる感じがあるじゃないですか。少し世界が美化されて見えるのです。
自分の生活や見ている世界をちょっとだけ素敵なものに見せてくれるという点で、今の若者とフイルムの描写がマッチしてるんじゃないかなと考えたりします。
こんなこと言っておいてなんですけど、僕はそういう感覚でフイルムは使わないですけどね(笑)。

馬込将充

1993年1月8日生まれ。千葉県出身
2016年武蔵野美術大学映像学科卒業
第13回写真1_WALL審査員奨励賞(菊地敦己選)
第14回写真1_WALLファイナリスト

<空虚な写真>

馬込さんは武蔵野美術大学で写真を学んできました。なぜ写真を始めたのかうかがってみたいと思います。

M:もともと僕は何かを作りたい欲求だけがありました。それは映像や写真、というように明確なものではなく、ぼんやりと「表現したい」という感情だけが先行していました。
それで、何か創るのだったら美術大学だろうということで美術予備校に通い始めたんです。その美術予備校では入試に必要なポートフォリオに収録する個人制作のジャンルを、例えばあなたは絵画、君は彫刻、という風に他の生徒と被らないようにする必要があって。たまたま写真は誰もやっていなかったので、先生から勧められたのが始まりでした。実に些細なきっかけなのですが、いざ写真を始めたらすごく楽しかったんです。
元々、僕は人に意思を伝える事がすごく下手な人間だったんですけど、写真は言葉がいらないじゃないですか。
写真は自分が見た世界や自分が視線を向けている物をそのまま提示できるのが、口下手な自分にはとても心地良くて、どんどん写真にのめり込んでいきました。それで写真専攻がある武蔵野美術大学に進学したんです。
:写真を初めたら楽しかったとのことですが、当時はどのような写真を撮っていたのですか?
M:最初は人と接するのが苦手だったということもあって、とにかく風景とか物とか人以外のものをずっと撮っていました。

馬込さんの写真を撮り始めた頃の作品をご紹介します。「輝く荒野」の作風がこの時点で見ることができます。

:始めてすぐの頃、写真で作品を作れと言ってもよくわからないだろうからと、予備校の先生や周囲の方々が参考に写真集を見せてくれたのですよ。
一冊目はStephen Shoreの『Uncommon Places』(※1)でもう一冊はホンマタカシさんの『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』(※2)でした。
地元が千葉の海浜幕張の方なのですが、『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』の中にいくつか地元の写真があったのです。
僕はあまり地元愛はない人間なのですが、自分が住んでる街の写真を見て、すごく衝撃を受けました。もともと地元の風景をかっこいいなと思っていたのです。
空虚感、自由さ、そして整理された美しさなどの魅力を感じてはいたのですが、それらが的確に表現されている気がしたんです。
写真ってすごいなと、17歳の自分にとって衝撃的な体験でした。
そのこともあり、まずは自分の街にカメラを向けてみようと思ったんです。

写真家の写真集に衝撃を受けた事で写真を本格的に始められたのは新納翔さんと同じです(>>新納翔さんインタビュー)。
写真集には人の人生を動かす力があるのですね。
空虚感のある風景は今回の展示でも感じられますが、コミュニケーションが苦手とおっしゃる割には展示ではポートレートも多数作品にされています。

M:大学に入ってから、明確に作品という形で写真を撮るようになったときに、初めての作品は当時付き合っていた恋人にカメラを向けたものでした。
そのあたりから自分の意識に変化が出てきて、むしろ人の方が撮りたいなとなりました。元々は人を撮影しなかったのに、今となっては人ありきで写真や作品を考えるようになりましたね。
O:馬込さんのHP(>>馬込さんの仕事作品)で作品を拝見したのですが、いわゆる広告写真だと、クライアントの望むものを撮るので作家の個性があまり出ないと思っているのですが、馬込さんの場合仕事の写真と作品としての写真にあまり差を感じませんでした。
仕事の写真と作品としての写真に境はありますか?

M:大学を出てすぐ、写真の仕事を始めた頃は、どちらかというと没個性的にクライアントワークをこなしていました。
こういう人がいるからこういう写真を撮ってねといった要望に淡々と応える感じです。仕事があるだけありがたいのですが、途中から、自分が我慢しているなと。
だんだんストレスを感じるようになったんです。
多分、自分の中で一番大事なのは自分自身の作品をつくることで、明確な指定があってそれ通りに撮ってという内容の仕事にはあまり興味が持てないんだなと気付いたんです。
もちろん、生活するお金を稼ぐことはすごく大事だけど、それを主軸にして写真をやっていくと、自分は写真が嫌いになってしまう気がしました。
なので、生活を切り詰めていけば自分の表現や作風を前提に発注してくださる仕事だけでもギリギリやっていけるんじゃないかと思って、興味の持てないクライアントワークは殆ど断るようにしたんです。興味の持てない案件は自分のモチベーションが保てないから写真のクオリティが下がってしまうし、そうなるとクライアントや被写体など全ての関係者に失礼になるからです。
でも、最近はありがたいことに「馬込さんが撮りたいように撮ってください」というような自由度の高い仕事をいただいて生活できるようになってきました。

※1:Stephen Shore(1947年10月8日生まれ)アメリカの著名なカラー写真家。『Uncommon Places』はアメリカの街の原風景的な写真集(>>Stephen ShoreのHP
※2:ホンマタカシ(1962年8月23日生まれ)日本の写真家。『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』で村伊兵衛写真賞を受賞。日本の郊外の写真だけど日本らしさを感じない内容になっている。

<不完全な写真集(タブロイドシリーズ)>

馬込さんは仕事をしながら、タブロイドシリーズを自費出版で世に出されています。

M:タブロイドシリーズの前に写真集『うつろ』を出しました。この作品は自分がどういう人間で、どういう作風なのかっていうのを見せるために作ったので、私的な心情吐露という意識がすごく強い作品だったんです。自分自身の、という個人的なことに的を絞っていたんですね。
でも、その後、自己表現自体にだんだん興味がなくなっていって、それよりは他者だったり社会だったりっていうのと、どう関係していてだとか、その交わっている先々の人だったり、人にも物にもいろんな背景があり…。そういった自分以外に興味を広げていった過程で制作していたのがタブロイドシリーズですね。
:これ、とても不思議な作りで、果たしてこれを写真集と呼んでいいのか悩んだのです(笑)。まず、本として完成されてないと思ったのですが、この不完全な状態で作品をまとめたのはなぜでしょうか?

タブロイドシリーズは次の3作品から構成されています。
『Youth of suburbia』『forget me (not)』『Alone together』
『Alone together』をご紹介します。紙質はとても柔らかく、広げると新聞紙のサイズくらいになります。本として閉じてなく、閉じ方の説明が入っています。

M:まず、今回発表した『輝く荒野へ』という作品の構想自体が『うつろ』完成直後からあったんです。
2016年から作り始めて、結果として2022年の発表になったので6年かかったのですが。その間、いつまでたっても完成しないので嫌になってきてしまったんです。ちゃんとした形になるまでは世に出せないと悩みつつ、もうちょっとラフな気持ちになって部分的に作品を発表してみようと思いました。
そのときに、まだしっかり製本したものにはしない方がいいなって。
また、当時もう一つ別の興味として、写真の価値って何だろうっていうことを考えていたんです。例えば現代アートの文脈に行くとアンドレアス・グルスキーの作品などは手の届かないような高価格で取引されています。片やポストカードとして数百円で売られる写真もある。
その価値の区別や説明は突き詰めるとすごく難しいし、そもそも自分の写真に自分で値段をつけることにも悩ましさを抱えていたんです。
だから、このタブロイドシリーズは最初に発表したときは自由価格で販売しました。購入したい方が、金額を決めて払う。100円でも5000円でも売るスタイルでした。
写真集って明確に言える形でないからこそ、自由な形で写真を所持して欲しいなと思ったんです。
このタブロイドシリーズみたいな作り方だったら、自分の好きなように切り抜いて、ある程度ポスターのように楽しむこともできるし、説明書通りに切り折りして、冊子のようにもできる。価値もそうだし、その写真の見方も含めて全部見る側に委ねる作品を作ってみようという試みでした。

タブロイドシリーズは不完全な形ですが、それは見る側に写真を自由に楽しんでもらうための仕様だったわけです。
写真そのものは今回の『輝く荒野』につながっていく過程の作品であることがわかります。タブロイドシリーズの完成版が『輝く荒野』というわけです。
では『輝く荒野』はどのような趣旨で作られたか、うかがってみたいと思います。

<輝く荒野>

今リコーイメージング東京で開催されている『輝く荒野』の展示です(>>展覧会概要)。ポートレートと風景写真が混じった形で展示されています。

O:この『輝く荒野』というタイトルの由来を教えていただいてもよいでしょうか?
M:僕の視線から見た今僕が生きている社会や世界の比喩というか、代名詞な言葉が『輝く荒野へ』ですね。
周りを見渡していて、最近はあんまり豊かな時代ということも言いがたくなってきてると思うんです。先進国に生まれて、物質的には満たされているし、テクノロジーも発達している部分があるけれど、周囲にいる人を見渡せば精神的に病んでしまった人だったりとか、それでなくとも日々や暮らしがつらくて満たされない人も多い。
また、SNSやインターネットを見ていると、毎日のように何かの議題で誰かが苛烈に争っていて、それで楽しむ人も傷つく人も生み出し続けている。
物質的に満たされてテクノロジーも進化しているという意味では輝いている世界だと思う一方で、みんな何かを争い合っていたり、社会が全般的な意味での機能不全に陥ってしまったような感覚もある。それはまるで荒野のような世界でもあるわけです。そういった相反する状態を示す言葉としてタイトルを『輝く荒野へ』としました。
O:展示はポートレートと風景が交互に展示されているように見えます。写真の展示順などに意図はあるのでしょうか?

 


[展示1枚目]


[展示2枚目]


[展示3枚目]

[展示4枚目]

M:会場に入ってすぐにあるステートメントの横にポートレートがあるのですが、僕の中ではそこからスタートしてすべての写真は連続的につながっています。
例えば、その最初の写真は僕の中では美しい記憶として展示しています。その後に続く2枚は満たされた感覚や遠のいてゆく過去を示唆する写真があり、そこから一気に時間軸をいま自分の見ている世界に繋げるために街を見下ろす人物の背を写した写真にして…といった感じで最後まで写真に意味を持たせています。


M
:この写真は「全ての人間に捉えきれないほどの感情や出来事、経験、思考または未来や過去といった背景がある」という普段から私が創作の要にしている感覚を示唆することができた写真かなと思い展示しています。

:これは結構大事な写真な気がするのですがその「背景」という言葉が鍵と思っていて、ステートメントにも「写しきれない背景につながるための写真を撮りたい」と書いてありました。「背景」とは何でしょう。
M:僕はあるタイミングで自分の主観でしか写真を撮れないことに嫌気が差し始めたんです。自分が能動的に世界を捉えようとする限り、僕がフレーミングして僕がその瞬間を切り取る形になります。例えば人を撮る時に、その見え方は撮影者の主観に依存してしまう。僕にとってそれは被写体に対してとても不誠実なのではという疑問を持ちました。
人間は生きる上で、膨大な経験や思いを日々抱えていきます。その人がすごく悲しいことを経験したかもしれないし、すごく満たされた暮らしなのかもしれない。
自分が他人のことをどれだけ思い考えていても100%は理解できない。それなのに、写真というある種断定的なメディアで、その人の見え方を固定化してしまうのが嫌になったんです。
そういったことを無視してしまう気がしたんです。
だけど、写真を撮るにはやっぱり主観から逃れられないし、というか人間自体主観でしか生きられないよなって。
そういう意味では写真で完璧な記録や再現も不可能だと思っています。でも「共有」や「共感」という言葉はあるし、それを日々実感する機会もある。
写真は光によって写された視覚的な情報しか残せないけど、その写真に写らない、記憶だったり過去だったり内面的なものだったりする写真の外にある領域を「示唆」できるような写真を撮るようにしようと思ったんです。
:その「示唆」が背景ということですかね?
:そうですね。これは僕の狙いなので、実際成立しているかわからないのですが、この写真を見たときに、情報としては建物の前に人が立っている写真だねとなります。
だけど、これがどういう印象の写真かと聞かれた時に、明確な形容詞は言えないけれど心が少し揺れ動く感覚が出てくるような写真、それが僕のなかで理想的な形ですね。
:ポートレートで人を意識させた後に風景写真が来るのですが、その風景の中には人がいない。そうすると風景がすごく際立って感じられます。
:狙いの一つなのですが、普段からほぼ人が写ってない状態でしか風景を撮らないんです。これに関しては人がいると、写真から感じる想像が固定化されちゃうのかなっていう気持ちがあって。ある程度人を排していった風景の写真っていうのは、写真を見た鑑賞者の人が直接その光景を見ているような自由さがあるんじゃないかなと。要は人がいない方が風景に匿名性が高くて、匿名性が高いということは汎用性も高いんじゃないかなという考えがありますね。

馬込さんの写真は見方を固定させないように、あいまいさを残しそれを写真に写っている人や事物の「背景」とすることで、見る人の想像力を広げさせてくれます。
馬込さんの写真には連続的な意味がありますがどのように想像力を広げるかは見る人にゆだねられます。人の経験を完全に理解することも表現することもできないですが、あいまいさがあるゆえに想像を巡らし、見た人同士で答え合わせをしても答えが一致しない、つまり100%理解できない世界の写真であることがわかります。

:今回個展は初めてですが、個展をやってみてどうですか?
:もともと個展はやりたくなかったんです。僕の中で作品の単位は写真集がメインでした。写真集は自分でまず見える順番を決められます。大小様々な写真を配置することで展開も作れるし、テンションも作れる。写真集という姿を基に、作品を組み立てるのです。だから展示はどう見せたらいいかわからない気持ちがありました。
自分の作品が展示という手法で成立するかものすごく不安だったんですよ。ただ、今回やってみてすごく楽しいですね(笑)。個展、展示っていいもんだなって思います。
個展の準備をしている段階で意識が変わっていったのですが、僕は作品に連続性というか、写真と次の写真を連続して見ることで生まれる効果にすごく執着していました。
だけど、そういった状態を引き剥がして、それぞれの写真を単体として成立させたときに、連続して見ないからこそ、生まれてくる広がりっていうのが絶対あるんだろうなって思います。
実際展示してみたら僕自身それをすごく感じられていて。だから充実感があります。シンプルに楽しいですね。
先ほどお話ししたような、展示の順序や写真それぞれの意味など、僕の中での厳密というか大事なルールや設定が存在はするんですけど、正直そこを無視してくれて全然いいし、いまは無視した上で生まれるものが面白いんだろうと思えています。

馬込さんの話を聞いていて、写真集で連続した意味づけを楽しんでもいいし、展示でそこから外れた見方をしてもよいということだと思いました。
展示を見ると、馬込さんの感じる世界に触れることができます。ただそれは見る人の持つ世界の影響を受けるので馬込さんの回答と異なるかもしれませんが、それこそが馬込さんの狙いだと思います。
馬込さんの写真集は5月に発売されるそうです、写真集も併せてみると展示とは違った感想を抱くと思います。私も購入しようと思います。

リコーイメージングスクエア東京最後の展示として、「輝く荒野」の馬込さんにインタビューをさせていただきました。
2年前の篠田優さんを皮切りにリコーイメージングスクエアで写真展を開催してくださった写真家の方々の話を伺うことができました。
改めて深く感謝したいと思います。すべて個性があり、素晴らしい展示でした。
そして、雨の日も雪の日もきれいに掃除をして、万全のコンディションでリコーイメージングスクエアを運営されていたすべてのスタッフにも感謝したいと思います。
ありがとうございました。お疲れ様でした。

スマホやPCのモニターで見る写真、展示された場に行って写真をみる、写真集で写真を見る等、写真を見る方法は様々です。
どの方法が一番かということはなく、それぞれの方法で写真から受け取る感覚は異なり、写真家は自分の表現に沿った方法を選びます。
その表現の場となったリコーイメージングスクエアは素晴らしい役割を果たしてきたのだと思います。
カメラは写真がなければただの箱です。写真はカメラがないと生み出すことができません。両者は両輪の関係になっていて、2つがそろうことで文化を紡ぎだすのだと思います。
リコーイメージングスクエアは終了となりますが、リコーイメージングと写真の関係は続きます。
これからも写真について様々な写真家の方の話を伺って、写真とカメラの世界を探求していきたいと思います。

そして、写真展はもちろん、カメラの修理や実機を見に来たり、ワークショップに参加するためなど、リコーイメージングスクエアに来ていただいた、すべての皆様に深く深く感謝したいと思います。
ありがとうございました。
また新しい拠点ができましたら、私も頻繁に顔を出そうと思っています。そちらでまた皆様と会えることを楽しみにしております。

リコーイメージングスクエア東京/大阪では、新型コロナウィルス感染症拡大予防対策の一環として、ご来館いただく際以下のご協力をお願い致します。
・入口にて検温させていただきます。(非接触型の体温計を使用いたします)
 ※37.5℃以上の方のご入場はお断りをさせていただきます。予めご了承ください。
・手の消毒を行ってからの入場にご協力をお願い致します。
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・過度に混み合わないよう、状況により入場制限をさせていただく場合がございますのでご了承ください。
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以下に該当する方々の来館をご遠慮いただきますようお願いいたします。
・咳の出る方
・37.5℃以上の発熱の有る方
・その他体調不良の方

ご来館のお客様におかれましては大変お手数をお掛けいたしますが、ご協力の程よろしくお願いします。