こんにちは

緊急事態宣言があけて、手探りで新しい生活を模索している、カメラも写真も好きな大久保(以下)です。
映画も好きなのですが、緊急事態宣言も明けてちょっと見てきました。
やはり写真好きなのでユージン・スミスを主役にした映画「MINAMATA」を見てきました。

昔、写真を見始めたころにいろんな写真を見たのですが、心に残った1枚がユージン・スミスの「楽園への歩み」でした。東京都写真美術館での写真展ではチラシのイメージ写真にも使われています(>>チラシのPDF)。
ユージン・スミスはドキュメンタリー写真家でグラフ雑誌「LIFE」で活躍しました。以前ご紹介したアンドレアス・ファイニンガーと同じです(>>ファイニンガー写真展)。
今では当たり前かもしれませんが、ある事象・事件をストーリーとして写真を構成して紹介する手法(フォト・エッセイ)を編み出した人だといわれています。

水俣の公害を取材して、作り上げたのが写真集「MINAMATA」で、その水俣での撮影を映画化したのが映画「MINAMATA」です(ちょっと混乱しちゃいますね)。
当時、ユージン・スミスのアシスタントをされていたのが、今回リコーイメージングスクエア東京で写真展「MINAMATA ユージン・スミスへのオマージュ」>>写真展「MINAMATA ユージン・スミスへのオマージュ」を開催している石川武志(以下)さんです。
石川さんは映画にもコメントを寄せています(>>映画「MINAMATA」)。

ユージンは私に人生に必要なことを全て教えてくれた人。 私をアシスタントとしてではなく、一人の人間として接してくれました。
ユージン・スミスとアイリーンとの歴史的なプロジェクト「MINAMATA」に立ち会えたことは私の宝です。映画を通して、観客の皆様にもシェアして頂けたら嬉しいです。

 

ユージン・スミスの水俣での取材生活の様子が写されています。取材は3年間という長期にわたったそうです。
実際に水俣の写真が掲載されたLIFE誌と1975年に発行された写真集「MINAMATA」(英語版)も展示してあります。

石川 武志

1950年 愛媛県生まれ
1971年 東京ビジュアル・アーツ卒業
1971~1974年 ユージン・スミスのアシスタントとして水俣を取材
1975年 渡米し以後フリーランスとなる
1980年 インドでガンジス河巡礼の取材を開始
1982年 インドのトランスジェンダー社会「ヒジュラ」の取材を開始
1987年 ハイチの「ブード」やブラジルの「カンドブレ」などを取材
2008年 再び水俣の取材を開始

写真展
1982年 新宿ニコンサロン「ヨーギ」
1985年 ミノルタギャラリー「ヒジュラ」
2011年 銀座ニコンサロン「ガンガー巡礼」
2012年 銀座・大阪ニコンサロン「水俣ノート 1971~2012」
2014年 ミナマタ・ミュージアム「MINAMATA NOTE 1971~2012」
2015年 ギャラリーEM西麻布「MINAMATA NOTE 1971~2012」
2019年 ギャラリー・プレイスM「NAKED CITY VARANASI」
写真集
1995年 「ヒジュラ インド第三の性」(青弓社)
2012年 「アジアの奇祭」(青弓社)
2012年 「MINAMATA NOTE 1971~2012」(千倉書房)
2020年 「NAKED CITY VARANASI」(蒼穹社)

<ユージン・スミスとの出会い>

石川さんは学校卒業後すぐにユージン・スミスのアシスタントになっています。
石川さんの「MINAMATA NOTE 1971~1972」にも書かれていますが経緯について改めて伺ってみました。

:石川さんは元々なぜ写真学校に行こうと思ったのでしょうか。ユージン・スミスのアシスタントになる経緯を教えてください。
:もともとジャーナリストを目指していたわけではありませんでした。写真で食べていきたいと思い商業写真を学ぼうと写真学校に進学しました。授業ではロバート・キャパとかユージン・スミスも習っていました。1971年にユージン・スミスの「真実こそわが友」という写真展があり、その入り口にユージン・スミスのポートレート写真がありました。なので、顔は何となく知ってはいました。でもユージン・スミスは商業写真とは分野が違いますし、彼のようになりたいとは思っていませんでした。
当時、僕は原宿に部屋を借りていました。原宿の「原宿セントラルアパート」というビルの1階に喫茶店があって、そこではカメラマンなどの写真関係の人が打ち合わせをしていました。
僕はそこによく顔を出していました。
ある日の夕方、原宿の路上でユージン・スミスらしき人がいて、写真展も終わっているのに、なぜここにいるのだろうと思い声を掛けてみました。
「ユージン・スミスですか?」と聞いたら「そうだ」と。なぜ原宿にいるのか聞いたら、原宿セントラルアパートに住んでいて水俣公害の写真を撮るという事でした。
彼から何をしているか聞かれたので「写真をやっています」と言ったら、「ふーん。ちょっと部屋に来る?」と初めて会ったばかりで何も知らない僕を部屋に誘ってくれました。
そして、彼の部屋まで付いて行くと奥さんを紹介されて、部屋の中には段ボールがいっぱいあって、荷物を詰めている所でした。「水俣に荷物を送る準備をしている」とのことでした。
送り方がわからないとのことで、そこから送り状を書くなど、何日か手伝いをすることになりました。無事
荷物を送り、彼らは水俣に行くので東京駅まで送っていったん別れました。

:その後10日くらい経ってから、奥さんからまた手伝ってほしいと電話がありました。今度は暗室を作りたいとのことで、材料の手配から手伝いました。
そして、暗室ができると、コンタクトシートを作りたいとなり、コンタクトシートができると、今度はこれはという写真に印をつけてプリントしました。確認用なので簡単なプリントでOKでした。結局、毎日行くようになって、最後に水俣に誘われたのです。
水俣に行くと東京でちょっとした仕事もできないし、僕はジャーナリスト志望でもない。水俣に行くまでは考えてなかったのですが、原宿の部屋代を出してくれるということで一緒に行きました。
つまり、助手として雇われたという感じではなくて、成り行きで気が付いたらアシスタントになっていたという感じです。

まるで映画のような出会いですが、山田なつみさんもマグナム写真家のゲオルギィ・ピンカソフと偶然出会っています(>>山田なつみさんインタビュー)。
商業写真家を目指していた石川さんの人生に大きな影響を与えた、偶然の出会いだったようです。

<ジャーナリズム>

:ユージン・スミスは水俣公害をどのようにとらえていたのでしょうか?
:ユージンになぜ水俣なのか聞いたことがありました。彼は「日本から出さないといけないメッセージが3つある。広島、長崎、水俣だ。」と言ったのです。
当時の僕は水俣を4大公害のうちの一つと思っていたので、意外でした。
ユージンにとって水俣公害は近代産業がおこした世界の中の大事件ととらえていました。世界中で同じような公害が起きていて、発信しないといけない。警告するつもりだったのでしょうね。LIFE誌に発表して最終的に写真集にしました。
:石川さんの他のインタビュー記事で読んだのですが、ユージン・スミスにメディアは信用できないといえばよかったのにジャーナリズムは信用できないと言ったそうですね。
:そうです。水俣病は初期段階では伝染病として取り扱われていました。差別があり、患者はバスにも乗れないし、亡くなっても誰も来ないのです。
そして、伝染病ではなかったことが判っても、「伝染病ではなかった」とあまり報道しなかったのです。

また、チッソの排水は疑われていたのだけど、他の大学の先生が戦時中の毒ガス論を出すとそれに対してメディアは記事を書いたのです。
そうなると原因はチッソの廃液とは言い切れないとなります。チッソ内部では自分の工場廃液に原因があるとわかっていたのに10年以上も工場は稼働を続けたのです。当然、患者も増えました。メディアと会社がリンクしていたのです。それで、僕はジャーナリズムが信用できないって言ってしまった。
ユージンがすごく怒って「だからジャーナリズムが大事なのだ!ちゃんとジャーナリズムが発信しないといけない!」と。彼の中にはジャーナリズムに対して強い信念がありました。少しでもジャーナリズムを疑うと彼はすごく怒りました。

:昨今、報道は客観性を持てと一般的に言われる風潮がありますが、ユージン・スミスは現場に入り込んでフォトエッセイでストーリー仕立てにしていますね。客観性からは離れているように見えます。
:ジャーナリズムにおいて客観性は捨てろと言われました。自分の中の正義や信念が大事で、ジャーナリストは裁判官に似ていると彼の言葉にもありました。
つまり、絶対的な法律や憲法があり、それに照らし合わせて判断するのです。
水俣公害では単にチッソが悪い、患者が正しいという事ではなく、自分の中の正義感、倫理観、道徳観で判断してメッセージを書く。それだけの責任がジャーナリストにはあるという事です。

僕も自分の考えがすごく大事だと思います。何か事件があれば、だれかが加害者で被害者もいる。それをやめさせるために文章を書くのであるならば判断が必要でどちらの方が悪い、困っている人がいたら、みんなが気付くような記事にしないといけない。
実は、私は中立だからどちらの味方もしない、というのは無責任なのです。中立とか客観的というのは誰の責任も追及しないというスタンスになってしまいます。
日本ではジャーナリズムが定着していなくて、新聞社のだれだれであるとか個人に責任を負わせないで会社の責任としている。それはそれでいいのかもしれないです。ただ水俣公害を撮影しても支局の人は2年くらいで交代してしまいます。

<アシスタント>

展示は水俣で撮影をするユージン・スミスの写真です。非常に生活感があります。
東京の写真は1枚もないです。

:これを撮った時はどういう背景で撮ったのでしょうか?
:水俣にはアシスタントとしていきました。当時の私たちの概念では今回のような写真をアシスタントが撮るのはありえない事でした。僕は自分のカメラは持っていったけど、フィルムは持っていかなかったのです。水俣入りして2週間くらいした頃、枕元にトライ-X(白黒フイルム)が20本ほど置いてあり、ユージンが「何で撮らないのだ。アシスタントなのだから撮れ」と言うのです。
横で撮っていいのかと聞いたら、彼は自分(ユージン・スミス自身)を撮れというのです。
流石に患者さんを撮影するときはサポートに徹しましたが、ユージンが山から工場を撮るときなどは気を遣わずに済むので、撮りやすかったですね。あと、ユージンの日常を撮影しました。暗室から出てきて、寝てしまったりとかね(笑)。

:この写真は許可を撮ったのですか?
:勝手に撮りました(笑)。どの写真を使うか考えているうちに寝ちゃうのですね。たぶんストーリーをイメージしていい気持ちなのでしょう。暗室でプリントするときはすごく集中しているので、この時はリラックスしていたのだと思います。
:ユージン・スミスは実際にどんな感じで写真を撮っていたのでしょうか。
:普通、写真を撮る相手に対して「私はあなたが大好きだ」みたいなことは言わないですが、ユージンは実際に相手に伝えて撮影し、それを写真集に書いてしまう。僕はそのやり方に慣れていないので、驚きました。それがユージンのアプローチの仕方です。内情を撮るには主観的に被写体に寄り添うやり方です。彼のスタイルですね。

:今回の展示はユージン・スミスの取材をしている様子を描いたフォトエッセイに見えますね。
:水俣にいる3年間で、たまに撮影しましたが、あとでドキュメンタリーにすることは考えていませんでした。最初からユージン・スミスのドキュメンタリーとして1冊写真集を出そうと考えていたら、もっと撮るべきシーンはたくさんありました。今にして思えば、後悔はたくさんあります。でも、アシスタントをしながらよく撮ったともいえるかもしれません。

今回の展示はユージン・スミスのジャーナリストとしての生き方を描いたフォトエッセイだと思います。写真を撮りために水俣に住み、そこで普通に生活を営んでいる姿が垣間見えます。
撮影をし、現像、プリントを行う写真家としてのユージン・スミスと畳の上でお箸を使って夫婦でご飯を食べるユージン・スミス。彼の取材の「スタイル」がとてもよくわかります。
また、映画を見られた方は、ユージン・スミスを演じる主演のジョニー・デップと写真の本人がかなり似ていることが分かると思います。映画と見比べると新たな発見があると思います。
展示を見に来られてはいかがでしょうか。

<自分の作品:ヒジュラ>

:アシスタントをされた後、海外に出られてインドの写真を撮られています。ジャーナリストを目指してはいなかった石川さんがユージン・スミスのジャーナリズムに触れて、どのような変化があってインドに行ったのでしょうか。
:ユージンが水俣を引き上げるときにニューヨークに来ないかと誘われました。僕はユージンの知り合いのLIFE誌の人たちに興味があって渡米しました。
その後、写真集「MINAMATA」が完成して、アメリカの若いカメラマンたちと交流する事ができました。みんな何かを撮っていましたが、僕にはアシスタントの経験はあったけど、僕の作品はありませんでした。何を撮っているか問われても何もなかった。自分の写真が欠けていたのです。
ちょうどシルクロードに行く取材があってインドが最終地でした。インドで解散したのです。インドで自分が撮りたいものが見つかるのではないかと思ったのですが、その時は病気になって写真が撮れませんでした。1980年に出直してインドで撮影しました。自分の写真が少しずつ見えてきたのです。
最初に興味を持ったのはサドゥ(※1)でした。ビジュアル的にもすごく2年ほど撮りましたが、これは他の人も撮るだろうと思ったのです。僕はパキスタンでヒジュラを見たのですが、アンダーグラウンドすぎて手を付けられなかった。でも誰もヒジュラを撮影していなかった。インドの人も撮らない。人がやっていないものをやりたいと思いヒジュラを撮りはじめました。
ヒジュラはトランスジェンダーですけど、インドでは第3の性別でとらえられています。最近、LGBTで2つの性でトラブルが起きますが、3つ目の性という考え方がすでにインド社会にあるのです。第3の性が文化として存在している事を発信したいのです。これは記録でもあるしメッセージでもあります。
ヒジュラは今でも写真集が出てきていないのです。今まで撮影したものをまとめて、ヒジュラの写真集を仕上げていきたいと思っています。

写真を見ていると確かに男性でも女性でもない第3の性別の存在を感じることができます。
今でこそLGBTは社会的に認知されていますが、石川さんは1980年代にそこに光を当てていたという事だと思います。
また、石川さん自身の主観を出すという意味で、やはりユージン・スミスの影響を受けているように思えます。
ヒジュラの写真集。楽しみにしています。

※1:サドゥー(sadhu)とは、サンスクリット語、もしくはパーリ語で、ヒンドゥー教におけるヨーガの実践者や放浪する修行者の総称。日本語では「行者」「苦行僧」などの訳語があてられてきた。現在、インド全域とネパールに、400万人から500万人のサドゥーがいるという。(Weblio 辞書 より引用)

最後にこちらの写真を紹介したいと思います。
暗室のベニヤ板に書かれていたユージン・スミスの落書きです。

My photographs very quietly
Say
Look you , look at this and listen
Look you , look at this and think
Look you , look at this and react
And you do
Not Because I have compelled
But Because you have reacted
My photographs very urgently
But quietly urge you to
Think and feel
This is my hope for them

:ちょっとしたフレーズの落書きはたくさんありました。この写真の言葉の完成形が写真集に載ったのです。日常的に見える所において考える。落書きなんだけど最後の締めの言葉に使おうと思っていたんでしょうね。

写真集の締めの言葉を紹介します。確かに落書きに書かれていたことをブラッシュアップした感じがします。

Photography is a small voice, at best, but sometimes -just sometimes-one photograph or a group of them can lure our sense of awareness.
Much depends upon the viewer, in some, photographs can summon enough emotion to be a catalyst to thought.
Someone-or perhaps many-among may be influenced to heed reason, to find a way to right that which is wrong, and may even be inspired to the dedication needed to search for the cure to an illness.
The rest of us may perhaps feel a greater sense of understanding and compassion for those whose lives are alien to our own.
Photography is a small voice.
It is an important voice in my life, but not the only one.
I believe in it. If it is well-conceived, it sometimes works.
That is why I-and also Aileen-photograph in Minamata.
(写真集「MINAMATA」から引用)

リコーイメージングスクエア東京/大阪では、新型コロナウィルス感染症拡大予防対策の一環として、ご来館いただく際以下のご協力をお願い致します。
・入口にて検温させていただきます。(非接触型の体温計を使用いたします)
※37.5℃以上の方のご入場はお断りをさせていただきます。予めご了承ください。
・手の消毒を行ってからの入場にご協力をお願い致します。
・来館時には必ずマスクの着用をお願い致します。
・過度に混み合わないよう、状況により入場制限をさせていただく場合がございますのでご了承ください。
・場内では、お客様同士のソーシャルディスタンス(約2m)の確保にご協力ください。

以下に該当する方々の来館をご遠慮いただきますようお願いいたします。
・咳の出る方
・37.5℃以上の発熱の有る方
・その他体調不良の方

ご来館のお客様におかれましては大変お手数をお掛けいたしますが、ご協力の程よろしくお願いします。