人は誰でも、心の中に”共感覚”のようなものを持っていると考えている。もちろん正しい意味で、共感覚保有者と認められている人は少ないが。

共感覚(シナスタジア)

一つの刺激によって、それに対応する感覚(例えば聴覚)とそれ以外の他種の感覚(例えば視覚)とが同時に生ずる現象。例えばある音を聴いて一定の色が見える場合を色聴という。(広辞苑より引用)

そして物事を関連づけてイメージする力もだ。これらの感覚は、何かを表現する際にとても重要だ。

例えば私の場合は、撮影現場で心動く光景を目にした際に、その光景に合わせた音が聴こえてくる。

 

そして、その光景の構造(主に光による空間の構造)を解析し、カメラでどう切り取るべきかを図面のようにして見ることが出来るようになった。

そこから得た、現在私が多様する表現方法は、作品自体に現場の音などの情報を感じ取れるようにイメージを持たせ、写真という平面上でいかに立体を構成していくかというものだ。

極端な例でいえば、立体は基本的に上面(ハイライト)と側面(シャドー)で成り立っている。

この上面側面の関係を平面の中に階段状(光の階段)に複雑に取り入れることにより、奥行き感と空気感を持つ深みのある作品を描き出すことが少しずつ出来るようになった。

そこに色情報や緻密な光量調整を混ぜていくことにより、更なる視点の誘導や臨場感を与えていくことが可能だ。

 

擬似的な共感覚や関連付けの能力等は特定の人間にしかないというわけでもなく、人それぞれ程度もあるが、誰にでも育てることが可能だと私は考えている。

よく、写真を撮るのに他の知識は必要ではないと言う人がいるが、それは興味が写真の技術等に傾倒しがちで、表現の奥深さや伝えたいことをイメージする方向に心が追いつきにくいからだ。 

表現は、自分の中にある知識や経験が合わさり、滲み出てくるもの。
よって、自分の中にある知識が少ないと、どうしても表現に限りが出来てしまう。

それはとても悲しいことだろう。

かくいう私も決して博識というわけではないが、ずっと続けてきた楽器演奏や、大学時代の、光による空間構成の研究、そしてその他の興味を持った多くの知識が今の表現を支えてくれているのだ。

例えば共感覚とは少し違うが、建築家のサンティアゴ・カラトラバ氏の美しい建築は、人体の構造を研究しモチーフにすることでその造形を生み出している。

カラトラバ氏は構造やデザインを考える際に沢山の人体デッサンをする。
建築のデザインなのに、だ。

彼の建築は一言で言えば芸術だ。使い勝手の面はわからないが…。
実際に見てみたいと人に思わせる魅力があることは確かだろう。

※人工的な構造物を捉えた作品

また、音楽を作るという行為にも多くの知識や経験が必要だ。

例えば歌詞の中での言葉遊びの為には文章力が必要になってくる為、多くの本を読む必要が出てくる。

人によっては古事記や万葉集を参考にしている方もいる。

そしてその音楽を聴いた人間にある一定の共通のイメージを持たせる為に、作曲者自身の中に、先ず具体的な光景のイメージがなければならない。

一般的な一曲の長さは3分から5分程度だろう。
その中に自分の伝えたいことやストーリーを閉じ込めなければならないのだ。

自分の中の知識が浅ければ、曲自体にも広がりは出ずに浅いものとなってしまうが、知識の引き出しが多ければ多いほど、その深さは増していく。

ここで注意しなければいけないことは、絶対に自分にはそんなイメージ力なんてないと言ってしまってはいけないということだ。

人には必ず、関連付けをする能力が少なからず備わっている。
例えば様々な国の音楽を聴いた際には、その国のアバウトなイメージが映像としてなんとなく思い浮かぶだろう。他国の料理を食べた時もそうだ。

それは経験から、既に関連性を持たせて頭の中で構成することに成功している。だから決して難しいことでもなければ、イメージする力がないからとテクニックだけに頼らなくても良いのだ。

写真という平面上で深い表現をするためには沢山の知識や経験則が必要だが、簡単に言ってしまえば多くのことに興味を持ち楽しみの幅を増やせば自ずと表現自体も変わってくる、ということだ。

小難しいことをここで多く述べたが、私にとっては学び自体も完全に趣味だった。
多くのことを知る喜び、そしてそれを関連付けていく楽しさに気がついたというだけなのだ。