前回、伊勢・志摩・鳥羽をK-3 Mark III+HD PENTAX-D FA 21mmF2.4ED Limited DC WRで撮影した写真をお見せした。Limitedレンズスペシャルサイト「Evidence」のアザーカットなわけだが、今回は同じときにK-1 Mark IIとHD PENTAX-D FA★50mmF1.4 SDM AWで撮った写真。

K-3 Mark IIIと21mmを組み合わせた32mm相当(35ミリ判換算)が視界を切り取っていく画角なら、GRでおなじみの28mmは視界を拡げていく画角。そして50mmの標準画角は視界を凝縮していく画角だと思う。遠近感が肉眼に限りなく近い50mmこそ、切り取っていく感覚があるじゃないか…という異論はハイ認めます。しかし実際のところ50mmが切り取る範囲は、視界から意識的あるいは無意識にトリミングした印象がある。同じ範囲を写しても32mm相当より画面の中の情報密度が濃い。……なーんて話はこの連載を読んでいる方ならおわかりで、釈迦に説法、孔子に論語、猿に木登り、ペンタキシアンに…なんだろう、まあいいや。

32mm相当ののびやかな視界は、旅のスナップに合う。実際のところそれだけでも十分だと思う。でも旅の記憶を写真に詰め込むには、やはり50mmの密度が欲しくなる。写真を構成する要素はいくつかあるが、そのひとつが奥行きである。レンズを向けている先がどんな空間なのかにもよるが、そこをどれくらいの焦点距離で撮るのかによっても結果は変わってくる。空間によって焦点距離を選択するのが定石ではあるが、焦点距離に合わせてアングルや立ち位置を考える手法もある。単焦点一本勝負となると、必然的に後者になってくる。画角が固定される不自由さはあるが、遠近感は一定なので絵を作りやすく、とりわけ50mmは肉眼に近い遠近感なのでそれがやりやすい。

 

 

 

 

僕には高校~大学時代に写真を教わっていた写真家の師匠がいる。毎月プリントを持参すると、矢のような速さでOKとNGを仕分けたり、組み写真を作り始めたり、プリントの焼きについて「1号下げる」「そもそもフィルムの現像がよくない」などと指摘してくれた。大勢いる弟子の中で最年少だった僕は孫のように可愛がられ(実際には親子ほどの歳の差だったのだが)、褒められることが多かった。大物写真家が集まる飲みの席に呼ばれ、コーラでお供したことも何度かあるが、そのたびに「こいつは写真家志望だが将来きっと化けるぞ。名前を覚えとけ」と自慢げに紹介をされたものだった。残念ながら僕は化けておらず、天国にいる師匠がそれこそ化けて出てきそうだが、その師匠に唯一ダメを出され続けていたのが「レンズをいろいろ使いすぎ」ということだった。

大学生の頃は中判がメインとなり、使うレンズもほぼ広角、ときどき標準だったのだが、高校生の頃は当時まだ珍しかった広角ズームをメインに、標準ズームと望遠ズームも持ち歩いていた。すると持参するプリントの山には、20mmで撮った写真と200mmで撮った写真が混在する。ズームレンズの広角端と望遠端ばかり使うので、僕の写真は20mm、28mm、35mm、70mm、200mmが大半だった。師匠は「これじゃレンズ博覧会だな」と笑いながら、「この写真ぜんぶ、俺なら50mmで撮れる」と言い切っておしまい、ということが何度かあった。50mmじゃこんな広い光景は収まらないし、こんなに寄ることだってできないじゃないか…と内心思いつつ時は過ぎ、気がついたらレンズなんて50mmだけでいいじゃんと思う、あの頃の師匠の年齢に近い自分がいた。

 

 

 

 

かくしてリコーイメージングさんからK-3 Mark IIIとHD PENTAX-D FA 21mmF2.4ED Limited DC WRで撮ってきてくださいと頼まれたロケに、個人的な欲求としてK-1 Mark IIとHD PENTAX-D FA★50mmF1.4 SDM AW(以下D FA★50mmF1.4)も持参した次第。K-3 Mark
IIIでは3日間で2000枚ほど撮影したのだが、頼まれてもいないK-1 Mark IIでもほぼ同じ枚数を撮っていた。

しかしD FA★50mmF1.4、本当に重たい。約910gという数字以上の重量感がある。よく写るレンズに共通した、ガラスが詰まっている感覚だ。まあ今どきは安価なキットレンズでもシャープに写るのだけど、さらに上質なレンズは空間をスライスしたように写る。そういうレンズは大抵長くて重たい。立体感などは収差の絶妙なバランスで成り立っていて、理想を突き詰めるとレンズ構成も複雑になるのだろう。D FA★50mmF1.4は絞りを開けて前後をボカしたときはもちろん、絞って撮ったときも「ここまで写るのか」という独特な再現力がある。

 

 

 

 

 

ってこの連載はカメラの話もレンズの話もしなくて結構ですと編集長に言われているのに、レンズについて熱く語ってしまった。悪い癖だ。では旅の話でもしましょうか。このロケをしたのは1月あたま。現地での新型コロナウイルスの患者数も落ち着いていて、伊勢の市街や渡船の中は別として、志摩や鳥羽ではマスクをしていない人の姿も目立った。離島にいたってはお年寄りくらいしかしていなかった。しかしその翌週に三重県でも感染が急拡大。程なくしてまん延防止等重点措置が適用された。危なかった。

行き先に伊勢・志摩・鳥羽を選んだ経緯は「Evidence」でも触れたが、この行き先を選ぶという行為が自分にはどうにも苦手だ。あれこれ候補が思い浮かび、迷って決められないのである。今回は動画を撮るというミッションがあり、それを引き受けてくれた映像作家の友人が大阪在住だった。彼は以前から僕が答志島に行った話を聞き、一度行ってみたいと言っていたので、そうだこのタイミングだよねとすんなり答志島中心の旅程が決まった。

結果的にとてもいい旅になったのだが、振り返れば行き先を後悔した旅というのも思い浮かばない。僕は仕事で地方都市に行くことも多いのだが、観光地ではない町でも歩くと何らかの発見がある。それはカメラを持っているから、ともいえる。旅でほとんど写真を撮らないという人もいるけれど、僕には修行僧のように見える。そういう人から見れば、重たいカメラやレンズを抱えている僕の方が修行僧なのかもしれないが。

 

 

 

 

 

もっとも僕は飛行機が苦手なうえ、せっかちで長時間の移動も耐えられないので、海外の旅にはあまり興味関心がない。行きたいところがないわけではないが、それより日常の延長上にある日本国内の方が、旅を心から楽しめる気がする。移動手段もいろいろ選べるし、何より言葉が通じる。言葉のわからない世界にポンと身を委ねるのも独特な高揚感もあるが、写真を撮るにはやはり言葉が通じる方が好都合だ。

…と思っていたのだが、今旅最大の目的地・答志島では漁師のおじさんたちの言葉が半分くらい理解できなかった。志摩弁というものらしいが、さらに離島の漁師さん特有のアレンジがのっかって、なかなかわかりづらい。船長に写真を送ったらお礼の電話をいただいたのだが、ありがとう、また来いと言っているのはさすがに理解できたが、やはり半分くらいは聞き取れず。近くにいた船長の奥さんがそれを察したのか、途中で代わって通訳をしてくれた。日本は狭いようで広い。

そんな答志島だが、寝屋子という制度がある。義務教育を終えた島の男子は、自宅での夕食を終えると、寝屋親と呼ばれる世話役の家へ通う。そこで同級生と一緒に寝泊まりをし、朝はまた自宅へ戻る。共同生活で海の仕事や神事を身に着け、誰かが結婚すると解散。同級生でもある寝屋子どうしは朋輩(ほうばい)と呼び、生涯強い絆で結ばれるという。今回撮らせていただいた新造の船にも、船主親子の朋輩たちから贈られた大漁旗がたなびいていた。

 

 

 

寝屋子は昔は伊勢志摩に広くみられる風習だったが、今はこの島のみに残る。もっとも答志島も少子高齢化で自然消滅した集落もあり、残っている集落でも長男が休漁日の前夜だけ集まるという状況らしい。東京から離れたことがない僕には、方言や風習にある種の憧れもあるが、それらはどんどん失われて日本の風景や風土は金太郎飴のように均一化されていくのだろう。この2年間、遠出をすることがめっきり減ってしまったが、マスクなしで会話ができるような社会になったら、もっといろいろな日本を見に行きたいと思う。

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