写真にはステージドフォトというジャンル(区分け方)があります。
ステージドフォトとは登場人物や背景など、被写体に一定の加工を行ない、画面の中にフィクショナルな世界を構築する写真の技法。
その加工がしばしば「演出」に例えられることから、「ステージド・フォトグラフィ」と演劇的に形容されます(現代美術用語辞典 1.0から引用)。
伊丹さんのステージドフォトは本の表紙にも採用されています。そんな被写体をありのまま撮るストレートフォトとは違う写真について伊丹 豪さんに語っていただきます。
伊丹 豪(いたみ ごう)
1976年生まれ
主な写真集に’study”this year’s model”photocopy'(published by RONDADE)など。
展示も国内、海外ともに多数。
#4
画面中央に蜂。
まるで作り物のような、よくわからない写真かもしれない。
まずは写っているものを確認してみる。
蜂、塩ビ、水、フィルム、髪の毛、埃、白い石、シール2種、空気、影。
極めて具体的な見知ってるものが、はっきりと、くっきりと写っている。
少し状況を説明する。
狭いベランダに小さな娘のプールを出し、その底に白い塩ビの板をそっと敷く。
更にその上に光を反射し、色が変化するフィルムを浮かべ、何かに使えるかなと思ってとっていたクリスマスのシールをフィルムの上に置く。
白い石を沈めてみたり、アルファベットのシールを追加してみたり、なんだかんだ足したり、引いたりして遊んでいた。
そこへ蜂が舞い込んできた。
出来すぎた状況に躊躇しそうになったが、すぐに息を止めて2回、シャッターを押した。
写真としてはそれが全てなのだが、物事が端的に、具体的に写ってるが故に、反転してしまい、どこかファンタジーかのように見せる。
自分が思う写真の一番面白いところは、自分の目が見て、脳が認識しているものに限りなく近い複製であるということだ。
それこそが、自分が目にしている、認識しているものから一番遠い、現実と呼ばれるものに一番遠い何か、だと思っている。
写真というメディアが特権的に持っている、その限りなく精巧な複製性はデジタルカメラの出現によって、それまでと、それ以降と分けられるような別のフェーズへと移行したと思う。
#5
画面中央に2つの球体。
1つは実体であるシャボン玉で、もう1つはその影。
影はかみさんの着ているニットの上に。
ピントはニットの方、つまり影の方にあるので、一見すると主従が入れ替わっているように見える。
透明で、透過し、反射し、そして影ができる。
写真はそのどの要素もしっかりと定着させてしまう。
実際に目で見ているときは、種々のバラバラな要素でしかないものが、写真となってしまうと、突然それぞれが関連を持ち、まるでそうであったかのように主張してくるように感じる。
写真はカメラの操作の結果でしかないが、その潔さにこそ、普段我々が気づくことのできない、写真の特権があると思う。
#6
15mのプリントを制作し、展示し、その後川に流し、それを動画に撮って、後にプリントを回収し、トランクに詰め込んだ(注1)。
折りたたむも印画紙はコシが強くなかなか思うようにはいかない。
クレープ状に重なり、白と黒のコントラストが際立つ。
トランクの青いボックスも主張する。
この青いボックスを境界にして、画面上部はクレープ状のコントラスト、下部は面的な構成という風に分けられる。
印画紙に定着した黒いインクがかすれ、傷がつき、光を反射し、折りたたまれたことで幾つかの空間を作る。
青いボックにも無数の傷があり、時々白を覗かせる。
その手前、山なりに盛り上がるファスナーの存在感がこの写真の違和感に寄与していると思う。
この写真はPENTAX K-1でリアル・レゾリューション・システムを使用しての撮影です。
ステージドフォトは被写体は現実に存在するものから構成されているのに、見たときにはまるで抽象画のようにもとらえることができます。
#4は本の表紙に使われたそうですが、CGのようにも見えてしまいます。#6は写真を意識して被写体を配置していない点ではストレートフォトと呼べますが、意図的に切り出した点がステージドフォトともいえるかもしれません。写真ジャンルの境界はあいまいで写真表現の奥深さを感じますね。
注1:木造校舎現代美術館WSMAの2016 DEVELOPで15mの写真を展示し川に流した様子です。こちらの展示の写真もその背景を伺いたくなります。
WSMA 2016DEVELOPでの展示の様子(PENTAX official編集部:大久保)