今回のしおりは、喫茶店でコーヒーを飲みながら撮った1枚です。コーヒーを飲みながらも写真を撮るのか、それともコーヒーを飲み終わるまではカメラは持たないのか。それは人それぞれどちらでも良いと思います。私にとってカメラ、写真は生活の一部であり、またコーヒーもまた人生の一部。喫茶店で一生懸命に作品を撮ることはありませんが、でも、記憶のしおりとしての1カットを撮ることは忘れません。

撮らなければ忘れ去ってしまうものですから。

写真を考える時間について

写真を撮るという行為は孤独である、という人もいる。だが、実際に写真を撮るときに孤独であることは少なく、被写体や周りにいる人などに気を配りながら撮影していることの方が多いだろう。山奥で一人写真を撮るとすれば確かに孤独と言えるかもしれない。だが、一人きりで写真を撮っているからといって、無の境地かといえばおそらく違うだろう。カメラを構えているときというのはとても集中していて、カメラの設定、被写体のこと、写真の仕上がりなどのことで頭がいっぱいになっているだろうからだ。

なにが言いたいのかといえば、写真を撮っている瞬間というのは、冷静になって写真のことをじっくりと考えることはできないだろう、ということだ。自分自身の写真について、考えることはとても大切なことだと思う。どういう写真を撮っていくべきか、今の写真に足りないものは何か?どういう写真で自分の作品をまとめていくか?などなどについてである。これは写真を撮ることとは別の時間、場所でおこなうのが望ましい気がしている。目の前に被写体があれば、写真家は本能的に撮影モードに入ってしまうし、そうなればじっくりと考えるというのは難しくなってしまうだろう。

私の場合は、喫茶店でコーヒーを飲みながらというのが定番だ。できれば、本を読むか、または何もしないのが望ましい。だが、実際に一人で喫茶店にいるとついついスマホやタブレットなどで写真サイトなどを見てしまうというのが本当のところ(笑)。それでも、一人になって、写真のことについて考える時間というのはその後の写真を変えていく可能性があるという意味でとても重要だ。

もちろん、考えてばかりで写真を撮らないのでは意味はないが、自分自身を見つめ直し、写真について考えれば、必ず次の一歩は撮影に出たくなるものだ。だから、考えすぎるという心配はしなくてよいだろう。もちろん、写真について考える時間を持つことを強要するつもりは毛頭ない。考えてみるのも良いと思えば考えればいいし、必要ないと思う人は考えることはないだろう。

この写真は喫茶店でコーヒーを飲みながら、自分自身について、自分の写真について一通り考えを巡らせたあと、ふと目の前に飾られたテーブルの上の花を撮りたくなってシャッターを押したときのもの。なんの狙いもない。なんの気負いもない。ただ、テーブルの花が素敵だなと思って撮っただけの1枚。だから、自分の中ではとても印象に残っていて、いつかは人に見せたいと思っていた写真なのである。

自分自身がニュートラルに戻ったときに撮った1枚というのはそうやって心に残るものになるのだろう。

写真がシャープじゃなくても良いじゃないか

オートフォーカスが進化し、今のカメラは素早く確実にピント合わせができるようになった。他にもカメラはどんどん進化していて、誰でもが綺麗な写真を撮れるようになった。いわゆる高画質な写真と言われるものだ。古くはフィルムの時代、そしてデジタルカメラが出だした黎明期というのは高画質になることが求められる。それは低画質よりは高画質のほうが良いという当たり前の欲求からだ。

でも、画質というものが写真の善し悪しを決めるものではないのもまた当たり前のことといえる。もし、高画質でない写真がダメな写真だとしたら、誰も過去の写真などは見なくなってしまうだろう。写真とは本来、残しておきたい記憶をビジュアル化した形で保存しておく行為だ。だから、記憶を蘇らせてくれるヒントとして十分なクオリティさえあれば、高画質かどうかなどは問題ではないはず。もちろん、商業写真という観点でいえば高画質は絶対条件かもしれないが。

私が写真を記憶のしおりとしての写真を撮る場合に考えることは、画質よりもイメージだ。しおりとして保存しておくのに相応しいイメージに撮れているかどうかだ。そこがずれていなければ記憶のしおりとしては合格点といえる。

この写真は友人と一緒にクルマで信州の山に行ったときのものだ。友人が美味しいコーヒーが飲める山小屋がある、といって案内してくれたカフェ。カフェというよりは山荘にある喫茶店という方が相応しいか。

その日の山は立っているのも厳しいほどの強風とときおり強く降る雨。風と雨に打たれながら駐車場から山小屋まで歩いた。とてもじゃないけど、のんびりと写真を撮る状況ではない。それでも、クルマを降りるときに2台のカメラを持って出てしまうのは、もはや私の習性なのかもしれない(笑)。

山小屋に入り、コーヒーを注文してやっと一息。駐車場から数分歩くだけでこんなに辛いのだから、私には本格登山などは無縁なんだろうな、などと思いながら窓の外を見る。外と中の寒暖差と雨のおかげで窓ガラスは曇りきってほとんど外が見えない。でも、そのことがかえって、「外の景色を撮りたい」という私の写欲をくすぐってくれた。

窓ガラスにカメラのレンズをくっつけ、合わないオートフォーカスを駆使して何枚も撮る。撮れた写真は、かろうじて外のテラス席が確認できる程度。それでも私はとても満足して友人に液晶モニターを見せた。友人は「本当に写真が好きなんだね」と半ばあきれ顔で微笑んでくれた。

他の人から見たら、何が写っているのかどうかもよく分からないぼけぼけの写真かもしれないが、私にとっては記憶のしおりとして良く撮れた1枚と言える素敵な写真に仕上がってくれた。

シャープじゃなくても思い出はしっかりと写ってくれる。それが写真というものかもしれない。