こんにちは

カメラオタクかつ写真オタクな商品企画の大久保(以下O)です。
雨ばかりでなかなか晴れないですね。雨は雨なりに写真を撮りますけど、少しは晴れてもよいのかなと思います。
さて今リコーイメージング東京のギャラリーAでは、アンドレアス・ファイニンガー写真展-Andreas Feininger’s PENTAX Works- Part II 自然と形象が開催されています。

前回(>>前回の記事)に引き続き写真評論家のタカザワケンジさん(以下T)にファイニンガーの技術書である『ファイニンガーの完全なる写真』についてや、写真家とカメラについてなどの話を伺ってみました。

タカザワケンジ

写真評論家、ライター。
1968年群馬県生まれ。
早稲田大学第一文学部卒。会社員を経て、97年からフリー。
「新聞・雑誌に評論、インタビューを寄稿。『Study of PHOTO -名作が生まれるとき』(ビー・エヌ・エヌ新社)日本語版監修。金村修との共著『挑発する写真史』(平凡社)。
写真集の構成・解説に渡辺兼人写真集『既視の街』(東京綜合写真専門学校出版局、AG+ Gallery)、石田省三郎写真集『Radiation Buscape』(IG Photo Gallery)ほか。
東京造形大学非常勤講師。
IG Photo Galleryディレクター(>>IG Photo Gallery)。

<ファイニンガーの完全なる写真>


前回もご紹介した『ファイニンガーの完全なる写真』ですが、この本は写真の可能性を追求してきたファイニンガーが写真技術書の総まとめとして書かれています。
1章:写真の目的
2章:写真の本質
3章:写真術を通して物を見る
(中略)
8章:写真の可能性と限界
9章:良い作品を作るには
1969年に発行されていますが、今でも十分通じる内容です。写真を考えるのにあたり興味深い内容が8章、9章にありましたので、そこから少し引用したいと思います。

近代写真術の可能性は、図書館の中にある写真関係書を残らず読み漁っても探求しつくせないほど広大無辺である。
ところが多くの分野は、特殊な装備が駆使できる専門家だけにしか興味の対象にならないともいわれ、確かにのそのとおりであるのだが、時間、労力、道具類にほとんど余分な費用をかけずに誰もが自らの作品の可能性を大いに広げることができるということも事実である。これに必要なのは、興味という一字である。
言い換えれば、他人の踏みならした道を歩まずに、自らの道を切りひらこうという意欲、カメラを探求の道具とみて、その道具の創作力に富む利用方法を通じて、自らの物の見方とその感応によって写真を創造しようとする意欲が大切なのである。
とはいうものの、写真術にはほとんど不可能ということがないほど、いろいろなことができるという所に、誤ってそれが利用されるという危険もはらんでいる。
〔第8章 写真の可能性と限界:P224から引用〕
写真以外のすべての創造活動と同じように写真にもその作品を判断する基準がある。しかしその基準も、時代と無関係に語ることはできない。時代の変化とともに心構えも変われば、写真を評価する基準も変わった。プロドビッチが、かつて言ったように、「きょう良いものでも、あすは陳腐になるかもしれない」からである。
〔第9章 良い作品を作るには:P236から引用〕

 

:論理的に写真を言葉にしていますよね。建築の世界で学んだことが生きているのでしょう。
写真の目的など実践的に書いてますね。第8章では写真はいろんなことができるけどそれが誤って利用されるかもしれないという、写真をどういう風に使えばいいかという社会的な視点がある人だと思います。
また、第9章では写真家へのアドバイスも書いていて、すべての基準は変わる。表現の価値基準はどんどん変わると書いていますね。
この時代のアメリカの写真家はヨーロッパで勉強してきた人が多いです。20世紀初頭までアメリカは経済的には勢いがありましたが、ヨーロッパに比べて文化的、教育的なレベルはまだ高くなかったですし、写真は新しいメディアで理論ができていなかったから、ファイニンガーの果たした役割は大きかったと思います。
:当時の「写真」は今でいうと、新しい表現手法という意味でVR(Virtual Reality)みたいなものでしょうか?
:そうですね。ファイニンガーは1992年にペンタックスフォーラムで写真展をしていますが、カメラメーカーと一緒に何かやるのは非常に腑に落ちます。そういうのに向いている人だと思います。また、いろんなレンズを使っているので、一眼レフカメラのシステムにはファイニンガーに合っていたということだと思います。
:ご本人の肖像写真を見るとライカを持ってますね。
:ライカは好きな写真家も多いですが、パララックスがあるから厳密な画面構成をするのには向いていません。ファイニンガーのようにカチッとした構図をつくる写真家にとっては、一眼レフのほうが使いやすかったのでしょう。

ファイニンガーと一眼レフカメラ。もう少し深堀してみたいと思います。

<ファイニンガーとカメラ>

今回の展示の原点である、1992年にペンタックスフォーラムで開催された写真展「ニューヨーク」「自然の形象」 で、当時のペンタックスフォーラムの所長である野村とファイニンガーとのやりとりに下記が記載されていました。

写真展で発表した私のよく知られた写真は大半が4×5サイズのものですが、PENTAXで撮影した写真はほとんどが写真展で発表されていないため、この写真は初めてのものとなります。
撮影の目的に応じて、何種類ものカメラを使い分けたのはもちろんです。
その中で35mm版カメラについては、第二次大戦前の一時期を除き、私はPENTAXで仕事をしてきたし、思い通りの撮影ができたと確信しております。
〔ファイニンガーから野村への手紙より引用〕

 

また、『ファイニンガーの完全なる写真』ではカメラマンの機材について言及しています。

私は過去20年間「ライフ」誌の専属カメラマンをやったが、この体験が教えてくれたものは、撮影用具は手軽にせよということだった。道具類が少なければ少ないほど操作は手軽になり、撮影の技術面にはらう注意が少なくてすめばすむほど、それだけ多くの注意を被写体に向けることができる。
〔4章 写真機器と材料:P68から引用〕

 

ファイニンガーは4×5の大型カメラを主に使っていましたが、「PartIニューヨーク」と「PartII自然と形象」での展示で使用された写真はすべてPENTAXの35mm版の一眼レフカメラで撮影されたものです。ファイニンガーの機材の写真を見るとPENTAX MEとPENTAX SPが写っています。

〔ファイニンガーの機材:撮影 野村勝彦〕

機材に関するファイニンガーの記述を読むと撮影ジャンル(風景、マクロ、スナップなど)に応じて機材を使い分けるとあります。PENTAX MXではなく絞り優先AE機能に特化したPENTAX MEであったことが少し意外に思えたのですが、AE機能があるということで、撮影の技術面での注意を払う必要がなく作品創造に集中できるので、PENTAX MEを使用したのかと想像します。

ファイニンガーは35mmカメラではPENTAXを愛用していたのですが、ここで写真家とカメラの関係についてタカザワさんに伺いました。

:タカザワさんはいろんな写真家の方と話をしてこられたと思いますが、ずっと慣れ親しんだカメラを使い続ける写真家はいるのでしょうか?
:写真作家の人は結構多いと思います。例えばホンマタカシはリンホフ(4×5)、鈴木理策はディアドルフ(8×10)、川内倫子はローライフレックス(6×6)とか。
:最新のカメラではなく、なぜ同じカメラを使い続けるのでしょうか?
:やはりカメラと表現する世界の関わりが深いからじゃないでしょうか。また、作家性という点でも、同じカメラで表現することで、1つのスタイルを確立することができると思います。
ファイニンガーは様々なカメラを使い何でもうまく撮影してしまうのでスタイルを確立しようという意識はあまりなかったのかもしれません。
:ここでいう「スタイル」とは定義が難しそうです。撮影のフローでしょうか。
:その写真家らしさ。ほかの写真家とは違う特徴ですよね。
写真作家の場合は、作品によって違うカメラを使うことはあるけれど、メインのカメラは変えない人が写真作家の場合は多いですね。
報道や広告などの職業的写真家はどんどん機材をアップデートして新しいカメラを使います。デジタル化が進んでからはとくに。誰が撮ったかよりも何が写っているかのほうが重要だからです。
一方、写真作家の場合は何を撮ってもその人らしさ、作家性が出る。作品に一貫性がなければ作家になれません。

例えば佐内正史も作品制作に使っているのはPENTAX67で基本的に変わっていないですね。PENTAX67を使っている若い写真家の作品を見ると、「佐内っぽい」と思ったりしますよ。

ファイニンガーの手紙にも書いてありますが、彼にとって思い通りの撮影ができたのがPENTAXの一眼レフカメラでした。ファイニンガーは報道や記録写真をたくさん撮っていますが、今回の作品は報道や記録とは違う創造的な写真作家としての作品群です。写真作家としてのファイニンガーはPENTAXを使い続けていたのでしょう。

<自然と形象>

今回のファイニンガーの展覧会は前回の都市のモノクロスナップ(>>会場の様子の360度アーカイブ)から大きく変わり、鮮やかなカラー作品です。

カラー作品ということもありますが、かなり彩度が高めです。

ファイニンガーのキャプションは次のようになっています。
〔左側〕拾い集めた、サトウカエデの落ち葉。黄みがかった緑や、淡い赤と真っ赤と、褐色、焦げ茶から黒にいたる、さまざまな色調の断片。私は美の世界を逍遥 (気ままにあちこち歩く)する。
〔右側〕黄金の山稜とみまがうのは、黄鉄鉱のかたまりである。実寸は、幅で3.5センチくらいのものだ。

キャプションの表現に一貫性がなく、左側は詩的な表現で、右側はそっけなく感じます。どのように写真を解釈するかは見た人にゆだねているとも思えます。

今回もタカザワさんには1992年の写真展の図録を見て頂きました。
「これは被写体に対する興味から撮った写真ではないと思います。色やかたちへの興味と、それをどう画面構成するかという関心から撮っていると思います。画家がモティーフを選ぶのと同じですね。ファイニンガーは被写体である葉っぱそのものには興味を持っていないと思います。植物学者の撮る記録写真との違いはそこにあると思います。」

画家といえば、お父さんのリオネル・ファイニンガーは画家で「青騎士」と呼ばれる美術グループに属し、ピカソなどのキュビズムの影響を受けていました。リオネル・ファイニンガーの絵画(>>wiki art)の色使いなどに今回のアンドレアス・ファイニンガーの作品との共通項が見られ、大変面白いです。
また、今回のマクロで木々の「葉」を撮ってはいますが、「葉」を表現しているというより、同年代に活躍したアメリカ人のジャクソン・ポロックの抽象画(>>wiki art)のように「何らかの具体的なイメージ」を放棄しようとしてる様に見えます。また、骨などを組み合わせている写真はルネ・マグリットの絵画(>>wiki art)のようなシュルレアリズムな世界を造っています。
近代・現代美術の作品を制作していた、お父さんが身近にいたことが影響していたのかなと思います。

また、マクロ写真が多いのですが、ファイニンガーは『ファイニンガーの完全なる写真』でマクロ撮影は将来的に写真の幅を広げる手法と位置付けています。
マクロ撮影にはパララックスの無い一眼レフカメラが最適と記しており、その撮影方法についてしっかりページを割いています。
本が発行されてから約50年経過した現代において、マクロ撮影は特殊な撮影技能を必要としない一般的な表現になっています。昆虫写真など多種多様な写真が撮られてきていており、マクロによる写真表現の領域は大きく拡大したと思います。
ファイニンガーの慧眼には恐れ入るばかりです。

約40年前の古い写真ではあるのですが、まるで最新のデジタルカメラで昨日撮られたかのような鮮やかさと解像感のあるプリントです。写真の技術者としても超一流のファイニンガーの写真は色あせないのでしょうか?
ぜひ、リコーイメージング東京まで見にきてはいかがでしょうか。

ファイニンガーは写真家の特性についても記しているのですが、その中でも特に重要なのは「写真術を通して物を見る力」と説いています。
最後にその言葉を紹介したいと思います。写真を撮るためには何が大切なのかを考えさせてくれると思います。

写真においては意識的にものを見る能力、つまりその場に生起することがらだけでなく、写真をやらない人なら気づかずに見過ごしてしまうような、光と影の状態が生み出す物体の外観に注意したり、構図を面白いものにする被写体の形状を目ざとく発見したり、色の調和、不調和という観点から正確な色合いを見抜く力–もっと手短に言えば、写真の視覚効果を決定するいっさいのことがらに対する意識–がカメラマンにとって最も価値のある資産となる、と私は考えている。
〔第2章 写真の本質:P38から引用〕

 

リコーフォトアカデミーの教養講座では写真に関する講座がいろいろあります(>>教養講座)。
今回のファイニンガーのように写真と絵画の関係についての講座もあり、講座を受けると写真を見る楽しさが何倍にもなると思います。
見る楽しさが増せば、当然撮る楽しさも増します。
私もよく受講するのですが、皆さんも受けてみてはいかがでしょうか。おすすめです。

リコーイメージング東京にご来館いただく際、以下のご協力をお願い致します。
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