こんにちは
写真好きのカメラマニアでもある、商品企画をやっている大久保(以下O)です。
前回の嶋田さん、前々回の久保田さんのインタビューでも話題になったのですが、写真家は結構映画が好きな人が多いですね。私も写真家ではないですが映画は好きです。
最近ではシン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見てきたのですがエヴァシリーズの集大成として素晴らしい映画でした。まだ2回しか見ていないのであと2回は見ようと思っています。
その映画の中でニア・サードインパクト(地球規模の災害)を生き延びた人々が寄り添う第3村が描かれています。村の周囲は人が生きることのできない死の世界ですが、第3村そのものは緑豊かな自然を感じさせる農村であり、ある意味ユートピアとして描かれています。
こちらの写真は山田なつみさん(以下Y)がとられた写真です。
*1:Petite fille courant dans un champ de colza (菜の花畑を駆け抜ける少女)左
*2:Petite fille courant dans un champ de colza (菜の花畑を駆け抜ける少女)中央
*3:Petite fille courant dans un champ de colza (菜の花畑を駆け抜ける少女)右
*4:Arbre de Vie (生命の樹)
山田さんがこの写真を撮られたのは東日本大震災で自宅を失い、まだ放射能の数値が高いころに避難先に移られたころです。
菜の花畑で人がくつろいでいます。モノクロでトーンが浅く、写真は矩形ではなく余白部との境があいまいで、まるで色のない夢の中のようです。
現実は1000年に一度の大災害の影響がまだ収束していないのですが、この写真からはまるでその危機感を感じさせません。この違和感はエヴァンゲリオンの第3村を彷彿させます。
Y:現実とのギャップですね。以前観た黒澤明の映画「夢」の中に原発事故の話があったのですが、そこでは生き延びた人がお互いに罵り合う様子が描かれていました。
当時は原発事故でそのような大変な世界になるのかと思っていたのですが、この菜の花畑では皆さん非常にリラックスした感じで、雑談をされているのです。この世の何処でもないような風景が広がっていて、現実離れした世界があることにとても驚きました。
現在、リコーイメージングスクエア東京で開催されている、山田さんの展覧会「TOKΘYO(常世)」(>>写真展情報)。「常世」という言葉を調べると、現実の世界とは違う死者の行く永遠の世界、不老不死の世界と出てきます。山田さんは「常世」を、あの世とこの世の間の子宮の中の世界ととらえています。このTOKΘYOは10年の長期にわたり制作されています。
山田さんの経歴を調べると少し違和感を抱きました。
山田なつみ
大学在学中より雑誌「Composite」 編集に携わる。2003 年渡仏。
バイト先 19 区 寿司店にてマグナム・フォトのGueorgui Pinkhassovをはじめ現地写真家と出会う幸運に恵まれ、次第に独学で写真を始める。
Katja Rahlwes アシスタントを経て、ソルボンヌ・ヌーヴェル大学卒業。在学中にルーヴル美術館で子ども向けのアートワークショップのアシスタントを経験。
フリーランスフォトグラファー、雑誌「+81」 通信員、ギャルリーペロタンを経て、2010 年帰国。同時に福島県に移住、無形文化財や農村の日常をモノクロ写真に収める。
2011 年東日本大震災で自宅が全壊。2016 年 11 月パリ『Galerie HAYASAKI』にて、難を逃れた愛機にて撮り続けている福島・宮城のシリーズ「TOKΘYO」展を開催。同展の開催に合わせ私家版の写真集を上梓。2017年 私家版写真集「TOKΘYO」は国立国会図書館に蔵書されている。
写真展
〇グループ展
2017 3331 アートフェア -Various Collectors Prize-, アーツ千代田, 東京(推薦者 高田彩 氏)
2016 Incheon international design fair, Incheon Art Platform, KOREA
2016 A.W.P Selection〜次世代を担う写真家たち〜,リコーイメージングスクエア銀座, 東京
2015 Incheon international design fair, Incheon Art Platform, KOREA
2015 Opposite Sex, Linus Gallery, Los Angeles, USA
2013 Invited artist, Incheon international design fair, Incheon culture and art center, KOREA
2013 Shared Lines, Canterbury Museum, NEW ZEALAND
〇個展
2019 In the Middle of Nowhere, café Dao Tao, 宮城(仙台写真月間)
2018 TOKϴYO, 大蔵山スタジオ, 宮城 (仙台写真月間)
2016 TOKϴYO, Galerie Hayasaki, Paris, FRANCE
2012 Les Îles Fortunées, Birdo Space, 塩釜, 宮城
2012 Les Îles Fortunées, ゆと森倶楽部, 遠刈田温泉
AERA.comのインタビュー記事はこちら(>>流産と震災――わが子を抱く腕の輪の中に感じた宇宙)
山田なつみさんのHP(>>NATSOUMI)
ネットで調べると山田さんはファッションに興味があったことがわかります。フランスの「PURPLE」という雑誌にあこがれ、フランスに渡航しました。写真家としてのスタートはファッション写真家のアシスタントです。非常に活発的で、国際的に活躍をされています。
ところが、展示されている写真は奥会津の落ち着いた心象的な写真と日本そのもので、インタビューでお会いした際は端正な和服姿でした。
それは、国際的でアクティブな経歴に対して位相が逆な印象を受けます。
[在廊されている山田さん]
<ファッションからドキュメント写真家へ>
Y:私が生まれ育ったのは山形県山形市です。山形市は昔から映画が盛んで、思春期の頃よく見に行きました。フランス映画をはじめとしてヨーロッパの映画が多かったです。例えば、「髪結いの亭主」などパトリス・ルコント監督の作品が好きでした。映画は軽快な調子で進むのですが、情欲とか世知辛い世の中の矛盾や人間の葛藤が描かれ少し重めなのです。入り口は軽快で知っていくにつれて濃厚になっていく世界でした。また舞台のセットが非常におしゃれでした。ファッションや小道具も役の性格を表すためにうまく使われていて、そういうファッションの在り方にすごく感動し、ファッション関係の仕事をしたいと思っていました。
O:そこで雑誌の扉をたたいたのですね。大学卒業後フランスの雑誌を目指してフランスに行かれるのはすごい行動力ですね。
Y:大学生のころ雑誌社のアルバイトをしていたのですが、そこの編集長にフランスにおられるスタイリストのところに行って、アシスタントとして勉強したいという話をしたら、メールアドレスを教えてくれました。当時卒業論文を書き終え、企業の内定ももらっていたのですがそれを断り、昼は派遣社員として働き、夜はフランス語の学校に行きお金をためながら、1年間渡仏の準備をしました。その準備の間に何度かフランスに行ったのですが、その方からファッション写真をやるので、もし来てくれるなら、カメラのことを知っていてほしいといわれ、そこから独学でカメラのことを勉強しました。
本格的にフランスでアシスタントの仕事を始めたのですが、師匠は撮影の合間に用事でいなくなることがありました。そうするとモデルさんが待機状態で暇を持て余してしまうので、物まねで写真を撮りました。そうしたところ師匠から人を撮るのが上手いといわれたのが写真家としての始まりです。見よう見まねで初めて、いつの間に写真に引き込まれていました。
O:ファッション写真家としてスタートされたのですね。
Y:ただ、当時どういう写真家がいて時代をどう写真に切り取ってきたのか全く知らなかったので、写真史の勉強をするためにパリ大学に入りました。
写真について論じる授業などをしていくうちに、写真が大変面白いと思うようになりました。同時にその写真の知識が何の役に立つのか疑問もありました。知り合いや語学学校の先生からはスタイリストになるために渡仏したのではなかったの?と突っ込まれました(笑)。
O:写真史を勉強されたとのことですが、写真のどこを面白く感じたのですか?
Y:写真の勉強は写真を分析して文字化するのが課題で今とても役に立っています。1枚の写真に込める写真家の思いが写真の見た目のインパクトではなく、すごく多重的にパイプオルガンの演奏のように時代とともに重なり合っていく和音であることがわかり大変面白かったのです。特にドキュメンタリー写真の影響は大きかったですね。それは歴史にかかわる報道写真ではなく、人の生活を撮影した写真です。例えば、アメリカの世界恐慌の時の写真を撮影したウォーカー・エヴァンスは好きですね。彼はパリで勉強して自分の国に帰って開眼しました。ほかにもウジューヌ・アジェも好きで写っている被写体に何の意味があるのか考えさせられましたし、すべて変わっていく切なさを感じました。写真は無くなっていくものに対して冷凍保存させる魔法でもあると気が付かせてくれたのです。
O:パリでマグナムの写真家であるゲオルギィ・ピンカソフさんと偶然出会ったそうですが、彼の影響も受けたのでしょうか?(>>ゲオルギィ・ピンカソフ氏の経歴)
Y:当時、パリにあるお寿司のテイクアウトのお店で働いていたのですが、そのお店に印象的な写真集の色校があったのです。これは写真集を出す人が持っている物なのだったので店長に聞いたところ、いつもお店に来ている人でゲオルギィ・ピンカソフさんの作品と教えてもらったのです。あのマグナムのピンカソフさんですか!とかなり驚きました。
彼が実際に来店された際に店長に教えてもらったのですが、確かに何回かお店に来ている人で、ロシアなまりのフランス語を話すおじさんでした。
ピンカソフさんは私のような外国人の学生にも気軽に声をかけてくださり、彼のプリント作品の画質調整などの悩みも話してくれました。
写真家はどんな作品を造っていても悩みながら作っていることを知り、ピンカソフさんのような巨匠と言われる方でも身近な存在として感じることができました。彼の作品は空気感があり、その場を切り取るというのに長けているのですが、そういう人ほどその場の空気になじんでしまうのです。それはそれまで見てきたファッション写真家たちとは真逆でした。
写真家が空気のような存在になって、その場を切り取る写真を生み出していることにすごく驚いたのです。
私が生活している地域は移民が多く、多種多様な人がいました。私が配達に行くと、様々な家庭が見えるのですが、そこはまさに演劇の舞台のようで本当に劇を見ているような感じがしました。複雑な事情を抱えている方もいて、様々なドラマが生まれていました。
また、パリではデモや衝突が日常的に起きていました。様々なデモを見ましたし、日本ではパリ暴動と報じられた事件も目の当りにしました。
でも、不思議と怖いという感情が全く沸かなかったのです。
これは東北の視点かもしれませんが、デモは日本でいう「ハレとケ」の作用、「ケガレ」を洗い流す「ハレ」の儀礼や祭りのようにも見えました。
大学で学んだシェイクスピアの「この世は舞台、人はみな役者だ」という見方がだんだん私の中で確信となっていきました。パリで生活している一人ひとりが役者のような気がして、こういうありのままの世界の写真を撮ってみたい気持ちが出てきたのです。
当時はコンパクトデジタルカメラでお店に来るいろんな方を呼び止めては写真を撮らせてもらいました。また、配達をした時は多種多様な方々が住んでいるご家庭の家族、通勤時の車窓からはデモを撮りました。
山田さんは、最初にファッション界の着飾った華やかな世界を体験されていたので、リアルな世界を切り取る写真があることに驚かれ、その写真に魅入られていきます。ピンカソフ氏のように空気のように場に溶け込んで、そのままの場を撮るドキュメンタリーの世界です。
そこには様々な人たちがパリの街を舞台にそれぞれの人生を演じている様子がうかがえます。
ただ、今回の写真には生活感がなくドキュメンタリー写真が持つ記録性を感じません。
<流産と子宮と常世>
Y:結婚を機に日本に戻り、最初はパリで撮影した時の延長で、普通に観察として奥会津の農作業の写真などを撮っていました。
そのあと妊娠がわかったのですが、知らない間に流産していたのです。
痛いとか破水とか何の前兆もなく、赤ちゃんが心臓の鼓動を止めて私のお腹の中にとどまったまま2週間ほど気が付かなかったのです。
知らなかったことが衝撃でしたし、さらに手術するまでに2週間の合計1か月の間、私は死んでしまった子と一緒にお風呂に入ったりご飯食べたりしました。そのことはシュールというか現実離れしている感覚を持ちました。
その時、祖母から聞いた話を思い出したのです。
「人は死んだらみんな山に登って、私たちを見守ってくれる。山はご先祖様が住んでいるところで、自然の一部となって私たちに恵みをもたらせてくれるように働きかけてくれる。」
そこから私の中でガラッと考えが変わり、私は生命を生み出すけど死も内包している。まるで山になったような感覚になりました。そこから心象風景の世界に入っていきました。
O:最初は記録として撮っていたのだけど、ご自身のショックな体験を経て周りの世界が変わった。その世界を作っていったのが今回の作品ということでしょうか?
Y:最初は写真として普通に見えるようにプリントしていたのですが、どんどんプリントを重ねていくうちに自分が子宮の中にいるような世界観を表現したくて作品を作りはじめました。
人間は子宮という外界と遮断された世界で一人で生を受けます。その後、まだ外界では生きられない一人で過ごす期間を経て子宮から世の中に出てきます。子宮の世界をあの世でもこの世でもない常世として表現しようと思うようになったのです。
また、奥会津には道祖神がたくさんあって、コンセイサマが置いてあります。同じコンセイサマでも村ごとで世界観は全然違うのです。村々は川や深い谷で隔てられているため、違った文化がそれぞれの村の中で熟成されています。それは三島町では今でも息づいていて、皆さん和気あいあいと集落の中で交流している姿からも常世を感じたのです。この稲刈りの女性の写真も記録としてありのままを何気なくとっていた写真だったのですが、私の気持ちの変化が反映されて表現が変わっていきました。
写真集の写真は四隅までしっかりプリントされていますが、写真集のあと作られた展示の写真はふちをぼやかしています。
O:展示の写真は写真集の写真と違い像の縁(へり)をぼやかしています。これはわざと差を設けているように見えます。
Y:写真集が先に完成していたのですが、見返しているうちにもっと違った作品を創ってみたくなったのです。最初は角まできっちりプリントしていたのですが、写真が発酵して別の作品になったのです。
子供に「よあけ」(福音館書店)という中国の詩歌を東欧の人がイラストレーションした絵本を読み聞かせたのですが、その絵本を見たときに背筋がゾクゾクするくらいびっくりしたのです(>>絵本「よあけ」のイメージ)。こういうぼんやりとした世界を写真で表現できるようになったら素敵だなと思い、そこから暗室でプリントテストをするようになりました。
このふちをぼかす作業に関して話を伺ったのですが企業秘密とのことでした。ヒントは刷毛を使うそうです。
*5:2015年の暗室作業の様子。子供をおんぶしての作業に並々ならぬ執念を感じます(山田さん、すみません!)。壁に貼っているプリントが矩形で写真集向けにプリントされていますのがわかります。
*6:2021年の今回のプリント作成の様子。刷毛があります。完全に手作業で1枚1枚仕上がりが異なるのがわかると思います。
O:もともとはきちっとプリントしていたのですが、プリントしなおしたのが今回の展示なのですね。「写真が発酵する」ということですが、それはどういう意味でしょうか?
Y:自分の内面的な成長とか経験を経て物の見方が変わるということですね。修学旅行で京都に行った時と大人になった時に京都を訪れると見方が違いますよね。いろんな見方ができると思うのですがそれを「発酵」ととらえています。
O:なぜモノクロフィルムで写真を撮られるのか気になります。「発酵」と関係ありそうな気がするのですが。
Y:なぜですかね。モノとしてのフイルムを親、そしてモノとしてのプリントを子供として、一そろいのペアをデータではなく、実際に手に持てるモノとして欲しかったのですね。数えきれない枚数を撮影してきました。ざっと千枚くらいはプリントしてきました。自分で撮ったフィルムの1コマから1枚のプリントを生み出し、時代や自分の経験を経てプリントを作り直すのは写真の醍醐味だと思います。
O:数えきれないフィルムから数えきれないプリントが生まれているのですね。無限の世界です。ところで、この写真は桜の木ですがキャプションは「胞衣」になっています。ほかの写真のキャプションと少し雰囲気が異なります。なぜ「胞衣」とつけたのでしょうか。
[ÉNA (胞衣)]
Y:生まれて半年の子供を乗せて寝転がった時に気が付いたのですが、桜の木の枝が血管で幹が胎盤に見えたのです。臍帯ですね。出産時に胎盤を見せてもらったのですが、赤ピンクで血管が入っていて、これが私と赤ちゃんをつないでいたものと教えてもらったのです。
その胎盤を桜の木に見出したのです。赤ちゃんも最初は「胎芽」と呼ばれることを知り、人間だけど芽であり、植物と同じだと思ったのです。自分の生きている世界は一人ひとり独立した人間も最初は芽なんだと。
また、子供は家の中にいるとご機嫌なのに実家に連れていくととても不機嫌でここは私の国ではないと泣くのです。子供を抱っこしている私の腕の中が彼女の全世界で、ものの見方によっては、世界は広く感じるんだなと子供に教えてもらいました。彼女が思っている世界を撮っていったら面白いことになりそうだなと気が付かせてもらったのです。
<日本の美意識>
パリで生活をしているエピソードで興味深い話がありましたので最後にご紹介したいと思います。
Y:通訳の仕事でパリの国立ギメ東洋美術館の館長さんの館長室に行ったのですが、長谷川等伯の松林図屏風のレプリカがあったのです(>>松林図屏風)。レプリカですがとても素敵で作ってみたいと思いました。長谷川等伯は跡継ぎの息子を亡くし、また戦国の世の中の影響を受け故郷に帰れなかった。その彼の経験が松林図を描くにきっかけになったそうです。当時は狩野派が艶やかな色使いと、細やかな描写で当時の美術界をけん引していたのですが、そこから離れ、禅の境地が松林図屏風に表れているのが印象深く残ったのです。
O:禅は日本の美意識でもあり、海外に影響を与えましたね。山田さんは海外で勉強されたので、基本は西洋の文脈だと思うのですが、そこに日本の文脈が入ってきたりしたのでしょうか?
Y:そうですね。日本にいるときは知ろうともしなかったですね。長谷川等伯の体験と私自身の経験が共鳴する部分も多くて、モノクロでやっていく確信を得た部分はありますね。
現代美術は西洋の美術の考え方で成り立っています。山田さんはそこを基本にして日本が独自に育ててきた美意識を取り込んできていると思います。
日本を出てフランスで勉強をしたからこそ、日本を強く意識するようになったのではないでしょうか。だとすると、和服を着ておられるのも道理です。
今回の展示は日本独自の文化圏である奥会津をモチーフに、そこに山田さんの経験から得られた世界を投影し、日本が生み出した作品(松林図屏風)をオマージュして創り出されていると思います。
その独創的なモノクロームの世界を体験されてはいかがでしょうか。独特のプリントをぜひ見てほしいと思います。
また、山田さんは写真史を勉強されて、その結果を作品に活かしておられます。
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