昨年のちょうど今頃購入した smc PENTAX-FA 50mmF1.4 Classic。そういえば K-3 Mark III でばかり使用して本来の画角である50mmで撮影したことがないのではないだろうか、ということで K-1 Mark II で撮影してみることに。 K-3 Mark III よりも大きな躯体に smc PENTAX-FA 50mmF1.4 Classic を装着すると、もともとコンパクトなレンズがさらに小さく感じる。このアンバランスさが愛おしい。
この組み合わせで月末に開かれる茶会の準備のため伯母の家へと向かった。玄関で出迎えてくれたのは愛らしい小菊。牧野富太郎氏曰く「秋高くようやく滋きの候、都鄙(とひ)の庭園をあまねく飾るものは菊花である」とあるように伯母の家の庭で咲いていたものとのことだが、玄関から茶室、お仏壇から洗面所まで、あらゆる場所に花が生けてあるのが伯母らしい。我が家もかくありたいところだが、忙しなくしているとつい後回しにしてしてしまいがちだ。 K-3 Mark III よりもはっきりとした音を立ててシャッターを切ると、背面モニターにふわりとした画が浮かび上がった。そう、この余白こそ50mmの画角だわよ、と静かに頷く。
シチュエーションのためもあるのだろうが、どうもこのレンズは和の雰囲気を湛えているのだ。やわらかく、奥行きのある描写は日本画を思わせるようで、自然と和のものへ視線が向かう。今年の茶会にも昨年と同じく smc PENTAX-FA 50mmF1.4 Classic を持ち出したのは全く無意識だった。茶会の良いところは文化財などの普段は入場が禁止されている建造物のなかを自由に立ち入ることができるところにもあると思う。いざ本番になれば写真を撮るどころではなくなってしまうので、始まるまえに着物の袖から腕をにょっきり出しつつ大きなカメラと小さなレンズで撮影してゆく。
床の間に飾られた花は「ツルウメモドキ」と「藤袴」。いずれも茶花として利用されることの多い花だろう。幼い頃はこれらの可憐さに全く気づかなかったものだが、つつましやかな美にいちいち感激するようになったのはわたしもそれなりの年齢になったということか。年齢によって好みが変化するというのは面白いものだな、と写真を撮りながら思ったりする。
和のしつらえというのは直線が多い。柱はもちろん、襖や障子、畳に欄間などなど。となると水平垂直が少しでもずれると目立つもの。仕事ではほぼ100%ミラーレスカメラを使用しているが、そうなるとファインダーはEVF。以前と比べれば格段に見やすくなったが、EVFだとどういうわけか一瞬構図を迷ってしまうことが少なくない。その点 K-3 Mark III や K-1 Mark II はその「一瞬の」迷いがない。目で見たそのままを視野率約100%の光学ファインダーで捉えることができるから違和感がなく、即座に水平を得ることができるのだ。
帰宅後、いただいたシャインマスカットを口に含む。白磁の碗に房の半分を無造作に放り込んだだけだが、静物画のような美しさすら感じるではないか。我が家のリビングはいい光が入るのだが、 K-1 Mark II と smc PENTAX-FA 50mmF1.4 Classic で捉えた緑色の粒は実物以上の光を放っているようにもみえる。
翌明け方、いつもの浜へ向かう道すがら、カラスの羽がフェンスに供えるよう差し込まれていた。レンズを向けると盛大な虹色フレア。そういえばこのレンズで虹色フレアを出現させたのは初めてのような気がする。このレンズの特徴のひとつであるのに、今まであえてフレアを出してやろうと思わなかったのは、それだけこのレンズ本来の魅力に惹かれていたのだろう。
あらためて smc PENTAX-FA 50mmF1.4 Classic をじっくり使ってみて、わたしが普段見ている世界にこの優しさはあっただろうか、と思う。日頃はシャープなレンズを使用することが多いため、ときどきこのレンズを使用すると気のせいだろうがまるで性格までソフトになったような気になるものだ。
「クラシック」を冠したレンズというと個性を悪目立ちさせたような製品もあるなかで(その意味では虹色フレア はもう少し控えめでもいい)、smc PENTAX-FA 50mmF1.4 Classic は一歩引いたような奥ゆかしさと品の良さを感じるのだ。リミテッドレンズとともに、今後も長く付き合いたいレンズである。