人生の記憶は、楽しかったことと苦しかったこと、そして何でもない日常で作られていると思うのです。何でもない日常と日常の間に、楽しいことや苦しいことが紛れ込んできます。楽しかった思い出の写真を観ていると、なぜかその後に苦しかった思い出まで蘇ってきたりして。人の記憶って不思議ですね。
写真を見返すという行為は、そんな不思議な記憶の階層を迷路のように行ったり来たりすることなのかもしれません。

今回も私の記憶の迷路にお付き合いください。

夕景はいつも雲との戦い

この日は暖かくて実に良い天気だった。午前中から飛び歩き、いろいろなところで春らしい写真を撮った。いわゆる撮れ高の良い日。でも、写真はやっぱり朝がたと夕暮れどきが勝負。早起きの苦手な私にとっては朝よりも夕方のほうが得意。

日中、ある程度写真を撮ったらあとは夕暮れまでは合間の休憩といった感じになることが多い。この日もお昼ご飯を食べたあとは、すでに休憩モードという感じで、気持ちはすでに夕暮れの光勝負となっていた。
もちろん、良い被写体があればカメラは構えるのだが、それほどガツガツはしない。ガツガツしないくらいの方が良いシーンに巡り会う確率も高くなる気がするからだ。

夕方に勝負と思っていたのは理由がある。天候は2日続けて晴天。前日は都内にいたが夕焼けが綺麗だった。だから、この日も日没まで晴天でいてくれると思っていた。晴天であれば海の向こうに沈む夕陽が撮れるだろう。日中は内陸側にいたが、夕景のために海側へと移動する

だが、日没の2時間も前になるとどういう訳か雲が増えだす。「まさかこのまま曇ってしまうことはないだろうなあ」と不吉な予感が。海辺に着いたころには目の前には大きな雲が広がる。この瞬間だけの天気をいえば、「どん曇り」という表現が相応しい。

期待はしていたが、思い起こせば私の出会う夕暮れの景色というものは大抵そういうものだ。日没を撮りたいと思っているとどこからか雲が湧いてくる。同じように花を撮りたいと思ってカメラを構えると風が吹く。撮影とは概してそういうものなのだ。風景専門の写真家は天候を引っ張ってくる。花の写真家は風も味方につける。そういう意味では私は風景も花も引きが弱いのだ。

だからいつも写真自体にひねりが必要となる。このときは、ホワイトバランスの色温度設定を大きく下げ、さらに微調整でマゼンタを入れて、紫がかった夕景とすることで、自分の引きの弱さに気がつかないふりをした。結果的に、記憶にも残る気に入った写真を撮ることができたのだから良い一日だったといってもいいだろう。

いつも上手くいくとは限らないのだ。だから写真は楽しい。そう思わなければこんなに長く写真の世界にいられなかったのかもしれない、とこの文章を書きながら思ってみたりする。

人工光が美しいと感じられる時

街スナップの基本は、その街をいかに楽しめるかなのだと思う。その街の何に魅力を感じるのか。人で賑わう生きた街が素敵だと感じるのか、それとも近代的な人工物に魅力を感じるか、または普通の人は目にもとめないであろう忘れ去られたオブジェのようなものを見つけることが楽しいのか。何に魅力を感じるかは撮り手の感性なので、正解はないのだと思う。

私が街スナップを撮るときに一番気になるのは光だ。自然の光もあれば人工の光もある。光って不思議なもので、自分の気持ちによって光に対する感受性も変わってくるのではないかと思う。

例えば、夏のギラギラした日射し。自分の気持ちが楽しく高まってるときには、光のまぶしさがとても心地よく思える。だが、気分が落ちている時にその光を浴びると自分が弱っていて、光に対抗できず情けない思いをすることになる(私の場合はである)。そして、その光に対する自分の感受性がそのまま写真にも表れるように思う。

この写真は、友人と二人で夕食をとったあとの帰り道の1カットである。その友人はちょっと気持ちが落ちていたのか、「たまにはメシでも行きませんか?のんびり話もしたいし」と私を誘ってくれたのである。二人で食事をして、コーヒーを飲んで、「また食事でもしよう」と約束をして別れた後。私は一人でカメラを持って街をぶらぶらとしていた。

スナップをしながら考えていたことは、「少しは彼の気持ちを楽にできたのだろうか」ということ。しかし、そのことを考えているうちに思考はだんだん自分のことに向かっていった。「そういう私は満足のいく人生を送っているのだろうか」ということが頭の中を占める。もちろん、スナップしながらなので、考え込むというほどではなく、なんとなく思いながらも、目で被写体を探してはシャッターを切るという感じだ。

そんなときに見つけたのがこの階段。誰も上り下りしていない階段に当たる光が壁に反射してとても美しく、この階段だけで縦横や高さを変えて何枚も撮っていた。一番かっこよく見えるのはどのポジションだろうということに集中して。

そして、撮りながら思ったのは「都市の人工光というは、きっと設計者が美しく見えることを考慮して作られたんだろうなあ」ということ。頭の中からは自分の人生についての思いはすっかり消え去って、気がつけば何十分もの間、ビルの人工光探しをしていたのである。設計者の考えた美しさはどこなのか?という思考でいっぱいになりながら。結局、この日、最後に頭の中を占めたことは、「人工光って美しい」ということだった。人生についてのことはすっかり忘れて。

そんなしがない写真家の一日。