人は連続する時間の中で生きているので、いつの時代でも同じものを見て、同じものが撮れるような気がしてしまいます。でも、今回のコロナ禍のように社会が大きく変わると、それまでは当たり前のように感じていたことが実は当たり前ではなかったのだと気づかされます。そのことに気がつくことで、目の前の日常を写真に残すことの意義が分かるのかもしれません。

日常にある当たり前のような景色。その積み重ねが私たちの記憶となっていくのでしょう。

ソーシャルディスタンスも意識されなかった頃の話

高速道路のサービスエリアが好きな私は、ドライブ中の休憩が多い方だと思う。食事休憩、トイレ休憩はもちろんだが、それ以外にもある一定距離を走るとサービスエリアに立ち寄る。電車での旅に例えると駅弁を買うと旅気分が高まるのと同じように、高速道路のサービスエリアというのはどこか旅気分を高めてくれる何かがあると感じる。

サービスエリアでは必ずカメラを持ってクルマを降りるし、何か目に付いたものがあればシャッターを押す。別に特別な何かが撮れるとは思っていないのだけど、それでもカメラは必ず持って歩く。

この日もカメラを手にぶらぶらとサービスエリアを散策していた。お土産を買おうか、それともソフトクリームでも食べようかなどと考えながら。

売店とコーヒースタンドが併設されたスペースに行くと、夕陽に照らされた海を眺める人たちが椅子に座っている。私も同じように海でも眺めようかと思いながらも、むしろその人たちのシルエットと影が気になり、カメラを構え始めた。影のどこまでをフレーミングに納めるか、人びとをどれくらいシルエットにするか、などを考えながら。

そうやって写真を撮っている間も、私のすぐそばを人びとが通り過ぎる。平日の夕方だからあまり混雑はしていないが、それでも観光スポット的にもなっているこの場所には多くの人がいた。
今にして思えば、この頃はずいぶん他人との距離も近かったものだ。ソーシャルディスタンスという言葉も一般的になる前のサービスエリア。この写真を撮ったときには、人びとの距離なんて気にしていなかったなあ。私のすぐ真横を人が通り過ぎても何も気になることはなかった。

もしかすると、もうこういう間隔で写真を撮るのは難しいのかもしれない。常に人と人のと距離感を保たないと落ち着かなくなってしまうのかもしれない。でも、いつかはまた人と人が近い距離でいることが平気な世の中になってほしい気もする。

ソーシャルディスタンスなど誰も気にしていなかった古き良き時代。この1枚の写真を見ながらそんなことを思っていた。

出会いと別れが交差する場所

新幹線のホームや空港のロビーほど出会いと別れが日常的に繰り返される場所はないかもしれない。家族、恋人、友人などさまざまな人たちを出迎え、そして見送る場所。

新幹線や飛行機に乗る本人にとっては旅のための手段でしかないのかもしれない。どこへ行っても、どこから帰ってきても自分自身とは離れることがないのだから。だが、それを迎える人、見送る人にとっては久しぶりの再会、またはしばしのお別れということになり、旅する本人よりもむしろ感傷に浸れる場所といえるのではなかろうか。

この写真は、私が見送るという立場で新幹線ホームにいたある日。別に大げさな見送りではなく、軽い気持ちで駅まで付き添って見送ったというだけのこと。しかし、その人が乗った新幹線が行ってしまうと、急に一人取り残された気持ちになって、なぜだかすぐにその場を立ち去りがたい感情が生まれた。といっても、新幹線ホームですることもないので、手持ちぶさたから行き来する新幹線を撮ってみたりしていた。私はいわゆる鉄ちゃんではないので、それほど一生懸命に新幹線を撮ることもない。ただ、なんとなくの寂しさを紛らわせるために撮っていたというのが本当のところだ。

自分自身が旅をしている最中に撮る新幹線や飛行機は、「旅の思い出をしっかりと記録しておこう」という明確な意思がある。実際に私自身の旅の記録には必ずと言ってよいほど交通機関の写真が残されている。そのときの写真を見返すと、その前の出来事、その後に行った場所などが思いだされる。駅や空港そのものの記憶よりもその前後のほうが強く思いだされる気がする。駅や空港はあくまでも目的地に向かう通過点でしかないからなのか。

それに対して、このときの写真はなぜか前後がよく思いだせない。一人取り残されたような寂しさから写真を撮っていたという感情と行動だけが思いだされるだけで、そのあと何をしたのか、どこへ行ったのかも明確には思いだせないのだ。

1枚の写真でも記憶の残り方、思いだし方には種類があるのだということに気づかされた。記憶のしおりにもいろいろあるなあと思った1枚の写真がこの写真である。