シャッターを切るのは特別な日だった。
シャッターを切るのは父親の役目だった。
そんなよき日があった。
それが、今ではスマートフォンも普及して誰もが手の中にカメラを持つ。
何気なく過ごす日々の中でもシャッターを切る機会が各段に増え、万人がカメラマンになった。手にするカメラが変わったとはいえ、「撮りたい。」と思うその気持ちは、「大切にしたい。」という気持ちに似ている気がする。
だから誰もが写真を撮って残したいのではないだろうか。
そこに、一眼レフに存在するファインダーの役割がとても大きいと、K-3 Mark IIIの明るいファインダーを通じて最近改めて感じている。
ファインダーの中にはカメラの設定が表示されている
ファインダーをのぞいた自分にしか見えない切り取られた空間がある
露出を決め、ピントを合わせ、シャッターを切る
そのプロセスは特別な感覚ではないだろうか。
カメラ機能への期待は勿論だが、それ以前に、レンズを通して見える光、対峙する被写体、画面を構成する要素、四隅への細心の気遣い。ファインダー内で起きる“それぞれの一瞬”という苦しくも心地よい緊張感が、撮影者の気持ちを掻き立てているに違いないと私は信じている。
だから、ドキドキして高揚する気持ちはファインダーの中に存在しているように思う。
「そんなこと分かりきったことだよ。」と思うかもしれない。
しかし、便利なものが身の回りに増えていくと基本的なことを忘れがちになる。気が付かなくなる。記憶の片隅に追いやられてしまうのである。
電話をかけるのはダイヤルを回す指が電話番号を覚えていたように
ラジオの電波を受信するのは耳チューニングしていたように
単純な操作の中に自分自身で覚えた基本的な操作や感覚というものは、それこそが機能の一部になって失われないものだ。昭和の古い人間の感覚と言われればそれまでかもしれないが、身で覚えたことは簡単には消えたりしないものだ。
初めて自分の一眼レフカメラを手元に迎え、シャッターを切った日のことを覚えているだろうか。とはいえ、自分もハッキリと明確には覚えているわけではないが、フィルムを入れずに空シャッターを何度も切ったことは覚えている。とにかくその行為自体が特別だった。
K-3 Mark IIIはそんなことを思い出すきっかけをくれた。
最近は家にいることが当たり前のようになってしまったが、気分がのらずに部屋にいる日も、そこに被写体がなくとも、ファインダーを覗いてシャッターを切ってみる。
何を撮ろうか、どこへ行こうかと考えたり、好みの設定を見つけたり、
普段使わない機能を探ってみるのも、どんなレンズを着けようかと考えることも
ワクワクして楽しい。贅沢な悩みだ。
そうしてカメラを手に取れば、何か別の視点や発想が生まれてくることだってあるし、一つ一つの確認が後に大きな結果を生むことになる。
思い切り写真を楽しめる日に想いを馳せながら、ファインダーを覗いて〝次は何する〟を見つけることや自分の感覚を忘れてしまわないようにと思う。
気づき、発見、再確認。あらためて振り返るそんな時間も写真日和だ。
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