ズームレンズはいかにつかうべきか。
おそらく、広角や標準そして望遠といったそれぞれの焦点域のレンズを付け替えるようにして用いるのが、その正当な使い方であろう。
逆言するならば、一本のレンズが伸び縮みし、それに伴ってあたかも撮影者の身体が単に前後しているかのように使用することは、邪道へと踏み入っている。
あえて述べるまでもないほどに、その理由はシンプルだ。焦点距離にともなってパースペクティブが変化するからである。
そのことはつまり、ズームリングの回転移動が、被写体までの距離を遠近するような物理的な移動とは、本質的に異なる位相にあることをあきらかにしているといえよう。
だが、わたしがズームレンズを使う場合の手つきは、限りなく後者に近いよこしまなものである。
もう少し画面を広くとりたいぞと思えば広角域にズーム、どうも被写体が小さいなと判断すれば望遠域にズームと、まるで自分が足を前後させる労を惜しんでいるかのような態度で、それを使っていることを、誠に勝手ながらここに告白しておく。
言い訳じみてしまうが、近年のわたしが主な撮影地としている半島の汀やそこに掘削された手狭な壕内では、その空間的な限界から自らの身体を前進もしくは後退し得ないゆえに、その場所をあたかも一望するように写そうとして広角レンズを採用したり、カメラの設置できる地形的な限界の位置から望遠レンズを使用したりして画面を構成する必要がある。
≪松輪・神奈川(2022)≫
身体の位置を疑似的に移動させること、つまり一種のテレプレゼンス(※1)のようなものとして、レンズの焦点距離を使い分けているのだ。
たとえばマクロレンズを使用したときファインダー内に映じられる、自らが縮小したかのような世界の像もまた、そうしたテレプレゼンスの一例とみることができよう。
だが少し考えてみれば、こうしたテレプレゼンスの感覚は、写真というメディアと切り離しがたいものであることがわかるはずだ。
例えばインターネットの検索エンジンに或る地名を打ち込めば、その土地や場所に関する様々な情報とともに、画像情報もまた表示される。それを見ることで、わたしたちはその場所を擬似的に体験する。ときにはそうした画像を自らの端末にダウンロードし、任意の時に呼び出して鑑賞や参照したりもする。
事物を映像というかたちで所有すること、それによって遠隔地に自らの身体を仮想的に位置させること。
現在でもごく日常的に繰り返されているこうした所作は、大仰な物言いになってしまうが、帝国主義国家の領土拡張を視覚的に追認するための良き媒体として機能した写真の在り方へと、ある程度に濃淡のある階調として、繋がっているのである。
それ故にそうした所作を、現在的ないわゆる“若者の”感性の在り方として大雑把に脱政治化した上で、自作もしくは他作を語るためのキャッチコピーとするような写真家および識者は、ときにはその字義通りのナイーブさゆえに批判されてもよいはずだと、自戒を込めて述べておきたい。
閑話休題、話をズームレンズに戻す。それを使用する際に重要な事は、撮影者が自らのうちに基準をもつことであろう。
教科書的にいえばそれは標準レンズの画角を自らの視覚に覚え込ませておくということを意味する。まずはそのフレームを基準として、そののちにそれぞれの焦点域を選択していくことで、撮影時の迷いが少なくなることは確かである。
と同時に、ここでいう基準とはおそらく、限界と読み替えてもいいものであろう。つまり前述したズームレンズの使用法を、たとえば、つぎのように抽象化してみたい。
一種の限界を設定し、その限界を自覚したうえでそこからの逸脱として、もしくは、別の在り方として、選択するのだ、と。
このことはともすれば何でもない、またある意味では、ネガティブな調子さえ帯びているように感じられるかもしれないが、撮影行為における実用的な教えというだけでなく、テクノロジーに対する態度として、または現在を生きる写真家の姿勢として、わたしにとっては重要な意味をもっている。
それは過剰化の一途を辿るテレプレゼンスの、ある意味では甘美な誘惑に対して、あくまでも「いま、ここ」のもつ限界を意識的に保持し続けるということだ。
もちろん、その信ずべき「いま、ここ」でさえも、ほとんど無数といってよい視覚情報によって先取りされ、そして構成されたものであるという批判が存在することは認めざるを得ない。
そのとおり、おそらく、わたしたちは既に存在する写真や映像の圏域において、世界を観ている。
だが、どこかへと徒歩で向かう、眠気を噛み殺しながら延々と続く道路を運転する、荷物の食い込む肩が痛む、そして予想よりもはやく傾き始める日の光に焦りを覚える。
モニター上では数センチにみたない距離を実際に迷い歩んだ結果、たどりついたカメラを置くべき場所。
身体を駆動させるそうした撮影のあいだに、インターネットには数え切れないほどの写真画像が矢継ぎ早にアップロードされていくわけだが、労苦の果てに切られた、たった一回のシャッターがもつ価値とはなんだろう。
わたしにとってそれは、最終的に身体の不要化へと行き着くような激流へのアナクロニスティックな抵抗であり、かつ皮肉ともいえようが、自らが用いる写真というメディアを撮影者の身体的な存在の様態によって限界づけようと試みるような、シジフォス(※2)じみた行為である。
そのことを、時代遅れの名で、倫理とでも呼んでみることもできよう。
だが、そうした「いま、ここ」という限界が、じつは決して汲み尽くせない深みを湛えたものであることに気づくために、言い換えれば、限界が可能性へと反転するために、逸脱やオルタナティブ(※3)がときとして必要となることにもまた、わたしは気づかなければならない。
指先へと冷やかに伝わるズームリングの回転はそのことを、わたしにうながしていた。
※1:テレプレゼンス
遠隔地のメンバーとその場で対面しているかのような臨場感を提供する技術のことである。特に、高品質な音声や高解像度の映像などを駆使した、遠隔地のメンバー同士で会議を催すためのシステムを指すことが多い。(出典 IT用語辞典バイナリ)
※2:シジフォス
ギリシア伝説のコリントス王。人間のうちで最もずるいといわれ,神ゼウスをすら欺いた。そのため神罰を受け,冥府では岩を山の上に押し上げる仕事を命じられたが,岩は山頂に達するたびにころげ落ち,未来永劫(えいごう)に呻吟(しんぎん)することになる。(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア)
※3:オルタナティブ
代案、代替物、二者択一、さらには、主流な方法に変わる新しいものといった意味で使用される英語由来のカタカナ語である。簡単に言うと、代わりとなるもの、択一的という意味である。(出典 新語時事用語辞典)
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