私には愛してやまないものがある。

それは、「光」と出会うその瞬間だ。

ただし、光であればなんでも良いというわけではない。

心が震え、カメラを構えることすら忘れるような光だ。

圧倒的な光景ではなくても、繊細に森の中へこぼれ落ちる木漏れ日だとしても、その美しさに心は動くものだ。

 

私が光を意識しはじめたのは、幼い頃両親に連れて行ってもらった森の光を見た時からだ。

今思えば、どうという事のない、ありふれた光景の一部だったのだろう。

しかし、子供の目線から見た森は限りなく広大で、木々はまるで巨人だ。
少し入るだけで薄暗がりになる森という世界に不安を覚え、降り注ぐ光に目を奪われた。

あの光が忘れられず、ずっと頭から離れないでいる。

きっとそれを上回るような光景にも数多く遭遇しているだろう。

だが、幼い頃の記憶に残る光は鮮明で、今も私の心を離してはくれない。

脳の隅々にまで焼きつくような、心を支配する程の美しさが。

 

しかしどうやら私は撮影を続ける中で、森の光とはこういうものだろうと少しずつ固定してしまっていたらしい。

ふとした瞬間に、年々感動が薄れてしまっている事に気がついた。

前回の投稿で記述したように、知識を蓄え、見解を深めていくことは重要だ。

それらがなければきっと表現の幅も狭くなってしまう。

だが、沢山の知識をつけたとしても、撮影するその場ではあまり慎重に考え過ぎない事が大切だ。

あくまでも知識や技術は表現の基盤であり、現場で考えるものではない。

感動というのは結局のところ、その相手の大小に関わらず、自分自身の心の在り方や感受性に依存するらしい。

だからこそ現場では感動を優先し、そしてその中のほんのわずかな冷静さでカメラを構える。

そうすると、構図も自然と決まってくれる。



ファインダーを覗き込んだ時に、その感動を閉じ込めるように頭が勝手に意識するからだ。

もちろん初めのうちは多くのことを考えて構図を決めていたが、それもいつからか自然なものとなった。

視線の誘導やら、光の重なりを意識するやらいつも小難しく説明してはいるが、それらは結局自分の視線の動きと、意識した美しい光の重なりを閉じ込めているだけなのだ。

とはいうものの、最終アウトプットのイメージや、プリントして裏打ちをするなら四隅のカット幅なども意識しなくてはいけないので難しいところではあるが。

 

多くの知識を増やした結果、表現の幅が増えたのは有難いことだ。

しかし今の私が最も重要視していることは、目の前に落ちる一筋の光や美しい光景を素直に受け入れるということだ。

現場で、なぜこうじゃない、もっとこうなるはずだ、というような自分の考えを少しでも抑え、感動を優先するようにしている。

感性を、再び研ぎ澄ませていきたいからだ。

幼いあの頃は、知識も何もない状態だった。

判断力や固定概念等の一切がほぼ無かった貴重な時期。

そんな空っぽな状態に与えられた絶対的とも言える感動の大きさは、どれほどのものだっただろうか。

いつの日か、あの感動を超える瞬間と出会いたい。

ただそれだけを求めている。

そして次こそは、その光景を感動のままに切り取れるように。

これから先も私は、心を震わせてくれる光を探す旅を続けよう。