写真を撮るということは今は特別なことでも何でもありません。スマホのカメラも含めれば、24時間いつでもどこでも写真を撮ることはできます。それでもやっぱり写真を撮るということは何かしら被写体に魅力を感じて、何かを思いシャッターを押すのだと思います。あなたは何を見て、何を感じたときにシャッターを押すのでしょう。“撮ろう”と思う瞬間と“撮らなくてもいいや”と思う瞬間の違いはいったいどこにあるのでしょう。時間のあるときにそんなことを考えてみるのも面白いかも知れません。

STAY HOMEという時間

2020年の春は写真を撮る人にとってはなんとも厳しい時期だった。新型コロナ禍によって不要不急の外出を極力控え、遠方への外出もNG。一人で写真を撮りに行くこともままならない状況。そんなときでもやっぱり写真を撮ることはやめられないし、写真家と名乗っているからにはただ自宅でのんびりという気持ちにもなれない。幸いなことに、自宅周辺の散歩くらいは健康のためにOKということになっていたので、私は毎日、欠かさず散歩に出かけた。これまでの人生でこんなに散歩をしたことはなかった。散歩などしなくても日々忙しく飛び回っていたし、運動不足が気になることもなかった。

散歩ついでに写真を撮るといってもあまり仰々しいカメラを持つのは何となく憚れた。だから、RICOH GR IIIみたいなコンパクトデジカメが毎日のお供となった。気が向いた時間にカメラを持って外に出る。初めのうちは自宅の近所をグルグル。とはいえ、所詮は自宅の近所。これといって目新しい発見もなく、何を撮ろうか?と悩んでしまった。ところが、毎日歩いていると天気、気温、時間帯によって見えるものが違うことに気がついた。「この天気でこの時間なら今はこういう被写体を探すと面白い写真が撮れる」ということがだんだん直感的に分かるようになってきたのだ。まるで風景写真家が、山に入って美しいシーンを探し当てるかのようにだ。初めのうちは撮るものに困るくらいだったのに、ある瞬間から毎日、違うものが撮れるようになったのだ。「ご近所写真家」と名乗っても良いかと思ったほどだ。

写真は近所にある畑に植えられたキャベツのアップだ。東京23区ではあるが、うちの近所には大きな畑がある。キャベツを作っていることも知っていた。でも、そのキャベツが成長していき、そして収穫されるまでの一連の流れをじっくりと見ることはなかった。道路に面した畑のため、散歩ついでにじっくりと見て、撮ることができるのだ。「キャベツ畑が面白い」。15年この場所に住んで、はじめてそのことを感じた。

結局、写真というのは、「何があるか、何が見えるか」ではないのだ。「何をどう見るか。何を面白いと感じるか」なのである。
今回のSTAY HOMEではこれを肌で実感できたことが最大の収穫。(キャベツの収穫ではない 笑)

海外にいけば、フォトジェニックだと感じられる被写体に次々と出会うことができる。だが、それは「何があるか、何が見えるか」というレベルなのかもしれない。もっと深くものを見ていけば、海外でなく自宅の近所でもフォトジェニックなものを見つけることができるのだ。2020年春のSTAY HOMEは私の記憶のしおりとしてハッキリと焼き付けられた。
それと同時に、早く海外に写真を撮りに行きたいというのが今の本当の気持ちである。

無意識か意識か?

街を歩いていると、道路標識や路面に書かれた交通標示などに惹かれることがある。そこに街を感じるから。人が立ち入らない場所には道路標識や表示は存在しないから。だから、街を歩くと必ずといって良いほどこういったものを撮っている。もちろん、すべての道路標識を撮る訳ではない。なんとなく、「これ!」と感じたときにカメラを向けるのである。この、「これ!」の正体はいったい何なのだろうか?もっと言ってしまえば、スナップというものは何をもって撮る、撮らないを決めるのだろうか。

「光が美しい」、「背景がフォトジェニック」などさざまなな要因があるだろう。だが、そのことすらも意識して被写体を探しているのかと聞かれると、どうもそうではないような気がする。無意識の中で、「これを撮る!」と決めて、無意識にカメラを向けるような気がする。といっても、すべてがまったくの無意識の中で完了してしまうということはないはずだ。「気がついたらシャッターを押していた」ということではないはず。必ずどこかで意識が入るはずなのだ。その瞬間はいつなのだろう。

無意識から意識に移る瞬間。もしかするとその瞬間がスムーズに移行することが写真を上手く撮る秘訣なのかもしれない。無意識で被写体を捉え、シャッターを押す瞬間に意識が入る。無意識と意識の狭間こそが写真にオリジナリティを与えるのかもしれない。

この写真は、カーブミラーに目を引かれて立ち止まった瞬間、その向こうに見える月が目に入り、そのままシャッターを押したものだ。このときのことを振り返ると、立ち止まったのは無意識、そして月が目に入ったのも無意識。無意識のままカメラを構え、カーブミラーにピントを合わせたところで、「月と空を大きく入れよう」という意識が働いた。だから、この写真を撮ったときのことは、「昼間なのに月が綺麗だった」という方が「カーブミラーを撮ろう」よりも強く私の記憶に残っている。結局、無意識で被写体を捉えていても、それを写真にするときに考えた(つまり意識)が自分の記憶として頭の中にインプットされるのかもしれない。

この文章を書いていて、ふと思ったことなのだが、無意識と意識というのは、結局のところ、感性と技術という言葉に置き換えられるのかなということだ。無意識が感性、意識が技術、技法といえば写真言葉として分かりやすいのかもしれない。
あなたは写真を撮るとき、どの瞬間を無意識でおこない、どこからが意識でおこなっていますか?ちょっと考えてみてはいかがでしょう。