そうか、自分が作品制作に愛用しているのはPENTAXのカメラだったのか。645D、2010年の発売から今年で丸十年、今使っているので3台目になる。僕にとってはもはや「ロクヨンゴ」という一台のカメラであって、どこの製品だとかそのスペックがどうのとかはすっかり忘れていた。画素数ですら調べないと分からない。自分でも不思議に思うほど、ストラップにでかでかと赤で刺繍されたメーカーの文字も指摘されて気がついたくらいだ。

 

©Sho Niiro

 

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写真家を目指すようになった2000年から、東京という都市の消えてゆく景色を写してきた。日本三大ドヤ街の一つである山谷地区(台東区)を記録するために、2005年から約7年に渡って帳場と呼ばれる宿の受付の仕事をしながらありのままの姿を撮影し、その後、今はなき築地市場を撮るために警備会社に就職、内側から撮影した。

 

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それからは山谷、築地といったランドマーク的な場所だけでなく、どこにでもあるような街も含め東京という街を俯瞰的に捉えようと2017年、写真集「PEELING CITY」(ふげん社)にまとめた。一度東京に存在する様々な景色を等価にしたかったのだ。その過程で人にヒューチャーした写真から、あくまで人物は都市の一構成要素として捉えるように変わっていった。

 

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写真を始めた頃はまだデジタルの時代でもなく、当然のようにフィルムで撮影し、モノクロ・カラーともに自家暗室でプリントしていた。2003年にはデジタル写真がメインになっていくだろうと思い、MacやPhotoshopなどを揃えてデジタル移行を考えていた。写真雑誌で「デジタルは写真か」といった記事をよく目にした時期だ。しばらくして、当時メインに使っていたミノルタの全システムを売って、なんとかキヤノンの10Dを購入。メディアがまだ高くて中古の512MBのCFカードが1万円近くしたのを覚えている。

 

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スナップ的な撮影から段々と都市風景にシフトしていくにあたり、シノゴのような緻密な描写を求めるとまだ自分の手に届く価格帯のカメラがなかった。2013年のはじめ、DP1Mを手にして解像感という点では満足のいくプリントを作れるようになったが、その緻密さとカメラ重量がアンバランスに感じ、重しをつけて撮影していたこともあった。古い感覚なのかもしれないが、重量と描写の緻密さは比例関係にないとどうにも腑に落ちない所があったのだ。

 

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デジタル写真の台頭はスナップとランドスケープのボーダーを取り払うとしている。銀塩時代、三脚と大判カメラをかかげなければ撮れなかった緻密な描写が、手持ちでも撮れるようになった。結果として出てくる写真は同じでも、被写体と対峙する時間を失ってしまった。僕がカンボのシノゴを担いで東京を撮っていた時、三脚をセットし、カメラをのせてピントグラスを覗いてと最低でも一枚撮るのに10分はかかった。当時は気づかなかったが、その間にパット見では気づかない細部を観察することができていたのだ。

 

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東京という大都市と真に対峙しようとしたら、一人の人間なんぞその都市の持つ力によって吹き飛ばされてしまう。街の片隅にたちしばらく立ってみて欲しい。30秒ほどで構わない。世界地図ではちっぽけな点に過ぎない東京という都市でさえ、長年に渡って構築されてきた都市力の大きさを感じるはずだ。645Dがはき出す繊細なデータも魅力的だが、カメラとしての大きさ、重量感のほうが僕にとって重要なファクターなのだ。

ここ4年、645Dに67の105/2.4というセットが自分の目になっている。街を撮っている時にはカメラを持っていることを忘れるほどの存在がいい。主張しすぎず、自分と被写体の間にある透明な存在。絶妙なバランスで黒子に徹してくれるそんなカメラ。だから撮影が終わると急に重量を感じ、一気にカバンがずしりとする。

 

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悪い点を挙げればいくらでもある。少ないバッファーや感度の問題、センサーの性能をフルに発揮させられるレンズも少ない。ただ本来カメラも完璧なものでなく、足りないものは写真家が補えばいいと思えば別に取るに足らない問題である。あまりに自動化が進むとカメラに振り回され、気づかぬうちに撮らされたものになってしまう。主体性のないそんなものは写真とは呼べない。AIによって技術が進歩するのは喜ばしいことだが、街や人と向き合って初めて生み出されるべき写真が自動化されつくされた先には写真文化の終焉が待っている。

 

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EVFもそうだ。出始めの頃と違って今では相当きれいになり、様々なメリットもある。実際私も仕事でのメイン機はSONYのミラーレスに移行して数年になる。ファインダー内で撮影画像が確認できることで素早く露出や構図微調整でき、ミスの許されない現場で安心して撮影できる。また、CM撮影の現場などではサイレントシャッターが欠かせない。
ただ、ここぞという場面や自分の作品を撮ろうとするとどうも645Dを使いたくなる。陳腐な言葉だけど、よりリアルに被写体を感じることができるのだ。写真の楽しさは自分で見つけた景色を切り取ることにある。EVFは確かに便利だが、どうも誰かが撮った映像を見せつけられているようで、撮らされているという違和感が拭えない。それこそストリートビューをスクショしているような感覚さえ覚える。被写体との間にそれが大きな壁となる。

 

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撮影者として自分の立ち位置を明確にすることは重要だ。内側から撮るのか、傍観者になるか。はたまた当事者になるのか。645Dは不完全がゆえに様々な選択肢を撮影者に委ねさせてくれる。

このふてぶてしいまでに社会の流れを無視している645Dはまさに孤高の存在なのだ。

掲載作品は>>「写真集PEELING CITYより