Adobeの現像ソフトCameraRawに、動画編集でよく用いられるカラーグレーディングの機能が追加されたことは僕にとっての大事件であった。数年前からデジタル写真は動画に吸収されるのではないか、と予想していたことがはやくも現実化してきたからだ。カラーホイールを使ったデジタル処理は以前からあるツールだが、動画編集用のものであって、写真編集に搭載されるとは想像していなかったのだ。このことは、将来的に動画編集と写真編集が統合されるかもしれないということを示唆している。そしてゆくゆくは、写真が動画の一部に包含される未来が訪れるかもしれない。

 

 

写真はpictureともいうように、そのルーツは絵画にある。それに比べデジタル写真のルーツはなんだろうと考えると、それは絵画ではなく、動画にあるのだと思う。つまりは動画からの切り出し。被写体に向き合いシャッターを切る、デジタルも銀塩も同じような撮影行為に見えて、その本質はだいぶ異なる作業なのかもしれない。もともと映画フィルム2コマ分から誕生した24×36ミリというライカ判。一世紀以上経ち、また動画に回帰していこうとしている。

 

 

なんとか手の届くフルサイズ一眼が出始めた2005年頃、写真雑誌ではデジタルが写真か否かとい話題が多かった。その答えがどうであれ、銀塩もデジタルも写真という一つの大きなくくりの中で議論されていた。2020年、その前提が揺らぎ始めている。

僕にとって撮影行為とは、自分の思考を言語化するための作業。まさに視考。カメラを持ってあるいていると、ふとした瞬間に言葉が降りてくる。今日もまた、ハリボーのグミをかみながら国道一号線に出て645Zを構える。もちろんコーラ味。馬込付近にあるお気に入りの陸橋から東京方面を眺め、シャッターを切って思う。「ああ、やはりこれは写真だ」と。ソフト面においては写真と動画の境界が曖昧になりつつあっても、実際カメラを持って写真を撮るとリアルに分かる違いがある。それを顕著に伝えてくれるのが光学式ファインダーなのだ。

 

 

都市風景を電子式ファインダーで撮ると、景色をスキャンしている気持ちになる。あくまで表層だけをすくい取る感覚。それに対し、光学式ファインダーは、まさに切り取るといった感じ。より深く、本質を掴み取ろうとする感覚。

 

 

物事を一番リアルに見る手段として裸眼に勝るものはない。そのイメージを他者と共有したいと考える時、カメラが登場する。自分が感動した景色があれば、自分の眼と被写体の間にすっとカメラを出して素直にシャッターを切ればよい。ノーファインダーは意外性のある絵は撮れるが、それは写真家の視線というよりカメラの目線になる。自分の視点、距離感を作るのは難しい。忘れもしない池袋駅近く、2005年、銀塩カメラのGR1sを覗きながら被写体に肉薄しようとするあまり、そのまま通行人につっこんでしまい繰り出していたレンズが壊れてしまったことがあった。

20年近く写真をやってきて自分のワークフローが出来上がってくると、なるべく他人の手が入らないで欲しくなってくる。RAWデータも素直なものがいいし、撮影に関してもお節介は御免だ。電子式ファインダーはその点、親切すぎる。それにどうしても自分が見ている景色というより、誰かが撮影した映像を見せられている気がして、目の前の景色のはずなのにどこか遠い場所に感じてしまうのだ。効率化を求める撮影ならいいが、作品制作となるとどうしても敬遠してしまう。

 

 

デジタルにスイッチして約15年、ワークショップでは撮影2割後処理8割だと教えている。撮影自体も重要であるけど、Photoshopをはじめ色々と進化してきた技術はおしみなく使うべきである。そういう意味で、撮影してきたRAWデータから自分なりの色をどう出すか、ファインプリントとして作品を仕上げるにはどうしたら良いか、レタッチの選択肢が無数にある。常にどうレタッチして仕上げようかと考えながら撮っていると、処理されていない景色が見える光学式ファインダーは最高に想像力を掻き立ててくれる。

 

 

 

 

写真が動画の一部になろうとしているとしたら、ミラーレス機の登場、電子式ファインダーは自然な流れである。その流れのままであれば、やがて一眼レフは消えてしまうだろう。新しい表現として写真と動画が融合していくのは素晴らしいことであるが、これまで偉大な先人たちが残してきた多くの写真文化は動画と切り離された写真群である。その文化の上に今の写真表現があるのだから、写真が純粋な写真として生き続けるために必要な存在こそ光学式ファインダー、つまりはペンタプリズムなのではないだろうか。

 

©Sho Niiro