街を撮り歩いていると、見えない力によって背中を押されているように感じることがある。シャッターを切った場所にたどり着いたのは自分の意思だけではないように思うのだ。写真における偶然は本当に偶然なのだろうか。
自分の写真をジャンル分けすると都市風景(City Scape)になると思う。ストリートスナップもあれば、街に佇む構造物を静かに切り取ったものもある。そういう要素が混じり合って自分の写真が構築されている。時間を見つけては、東京都内の色々な所に出掛け、街の移り変わりを写真におさめる。個人的に気になっている場所をいくつかマークして、定期的に私的な定点観測をする。そう言うと聞こえはいいが、平日にいい大人がカメラを持って街を徘徊しているのだから、傍からみれば不審者もいいところなのは間違いない。
都心部の大規模な再開発工事などは変化の様子が特に分かりやすいが、大なり小なりあらゆる場所が目まぐるしく変化している。どこもかしこもがたが来ているのだろう。高度成長期に建てられた建築物の入れ替え時なのかもしれない。
週に少なくても一度は撮り歩くルートがあるのだが、冒頭に書いたように、自分の意思で歩いているのか疑わしくなることがある。出発地点とゴールが決まっていることもあって、たまには気分転換に新規開拓してみようと知らない路地に入ってみるのだが、しばらくしておや、と思うのだ。なんだ、ここ来たことあるではないか、しかも何度も来ているぞ、と。それが不思議なことに、全く違う場所から出発してもその場所に出ることがあるから不思議なのだ。何かしらの見えない力に動かされているとしか思えないほどに。そんな時ふと、都市の核がアスファルトのずっと下でうごめきながら発する声のような、低い唸りが聞こえるのだ。間違いない、都市は生きている。
そうかと思えばいつも歩いていたように思っていたのに、踏み入れたことが無かった路地が近くにあったりする。そんなことを繰り返していくと、頭の中に点在していた自分だけの地図が段々とつながっていく。自分の足で作った地図は何よりも価値がある。
都市風景、ストリートスナップ、街をひたすら歩き続ける写真家は、広い都会の中で今日はどこにいくべきか察知する能力が必要となる。今日は新宿が騒がしい、今日はお台場のほうがざわつく、朝に目が醒めて布団から出るまでの間そんなことを考える。
来た道を戻らないというポリシーがあるので、交差点に出た場合、前進、右折、左折の3通りの選択肢がある。そしてまた交差点に来れば3通りの選択肢があるから、前の交差点からだと全部で9通りの到着地があるわけだ。しかしその中で一番いい写真を撮れるのは限られている。しかも数学と違って最短距離で行けばいいということにもならない。その地点に一番いいタイミングでたどり着かなくてはいけない。それが斜光環境であったり、人の配置であったり些細なアクシデントなわけだ。
写真は目で撮るのではなく、音や嗅覚、そしてもっと深いところまで感覚を貼り巡らせることによって本質が撮れるのである。もっと耳を澄ませば、都市の唸り声が聞こえるはずだ。
©Sho Niiro